株式会社土屋の託児所
土屋の託児所風景
総務シニアディレクター・大庭竜也
企業とのコラボでデニム製品を製作
アテンダント(介護者)がクライアント(利用者)のお宅で一対一の生活支援や医療的ケアを行い、障害を持つ方が住み慣れた地域や自宅で自分らしく暮らすためのサポートをしています。
今回は、当社で新たに開設された託児所と、井原市のデニム企業とのコラボにみる当社の地方創生の取り組みについて、総務シニアディレクター・大庭竜也のインタビューによりお伝えします。
そして、井原市文化財センターの首藤(すとう)ゆきえ氏より、現在開催中の「渋沢栄一と井原」展について、当社との関りを交えながらご紹介します。
画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/268354/LL_img_268354_1.jpg
株式会社土屋の託児所
■はじめに~地方創生への取り組み~
地方から都市部へと人の流れが進み、地方は現在、過疎化や高齢化に悩まされています。本社のある岡山県井原市もその一つ。井原は豊かな自然に囲まれ、繊維工業の盛んな街としてデニム生地の工場なども多くありますが、深刻な問題として人口の減少があります。若者の地元離れが激しく、急激に高齢化が進んでいます。井原市で働いている人も、市外から来ているのが現状です。
こうした課題の解決に向けて、当社はこの度、本社のある地域で託児所の設置、デニム商品の開発、CM放送などを行いました。
■当社初、託児所の設置
当社では一号目となる託児所を設置し、現在2名のお子さんが利用されています。場所は本社から少し離れた福山市で、一時預かりです。
(1)託児所設置の背景
託児所を設置した最大のきっかけは、女性の雇用につなげたいという想いです。社会的な課題としても、小さなお子さんがいる世帯は時間のやりくりなどで、女性が活躍しにくいということがどうしても起きてしまう。
当社ではマネージャーは8割以上が男性ですが、本来の同性介護という観点からすると女性のニーズは非常に高く、小さなお子さんがいても働ける条件を整える必要があります。このことから、今回の託児所設置に至りました。まだ実験的ですが、これを皮切りに、将来的には全国に広げていく予定です。
また、当社は介護を主体としていて昼夜を問わず稼働しています。そのため、最終的には24時間保育が目標です。それにより、小さなお子さんがいても夜勤が可能となり、今後の女性の雇用にもつながってくると考えています。
(2)地域コミュニティの創設へ
現在、建築会社や設計会社に依頼し、本社の横に2階建ての建物を作る話が進んでいます。1階は高齢者向けデイサービス、2階には地域の方が利用できるカフェと託児所を考えています。いわゆる「富山型デイサービス」のように、共生型という観点から、高齢者の方々と子どもたちが触れ合い、地域住民が集える場を創る計画です。
なおこの託児所は24時間、夜でも受け入れ可能とします。これを株式会社土屋のシンボルとし、地域コミュニティの活性化と女性の雇用を併せて促進したいです。
今後、全国に託児所を設置していきますが、最初は企業内保育から始め、そこから地域住民も利用できるようにします。また、障害をもっているお子さん、医療的ケアが必要なお子さんも受け入れるインクルーシブ保育も視野に入れています。
■デニムの街・井原で、地元企業とコラボ
井原が誇るデニム産業。この度、井原市の金融機関のご紹介で、タカヤ商事株式会社・高屋工場と当社がデニムのコラボ商品を作製しました。
井原デニムのトートバックとマルチケースです。
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企業とのコラボでデニム製品を製作
全国各地にいる当社のアテンダントに配布し、井原デニムのロゴが入ったトートバックを仕事や買い物に行くエコバックとして使ってもらうことで、井原デニムの宣伝になればよいなと。そのために約3か月をかけて、デザイン性と実用性を併せ持ったものを作りました。トートバックはしっかりとした生地を使い、内ポケットとマグネットボタンが付いています。
地方活性化の最初の取組みとして、こういったところから井原への地域貢献につなげたいです。また社内の福利厚生の一環としても活用したいので、今後、種類を増やして、継続的に製作する予定です。
■CM&今後の予定
この度、本社のある岡山県と隣県の広島県で、当社としては初のCM放送を開始しました。
まだまだ認知度の低い重度訪問介護の存在をさまざまな方に知ってもらい、この制度を利用してよりよい暮らしを送れる方や、ケアに携わる方が一人でも増えることを願って作成しました。
このCMは同年7月1日~31日にかけて、朝のニュース時間帯と夜のゴールデンタイムに流されます。
URL: https://bit.ly/press20210727_tsuchiya-cm
その他にも、地域にある学校における重度訪問介護の講演を通して、生徒がさまざまな感性を養う一つのアプローチをするなど、地元産業や団体とのコラボをより広げていきたいと考えています。
■渋沢栄一と井原と土屋
井原は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一のゆかりの地でもあります。
幕末から明治にかけて活躍した渋沢栄一は、「日本資本主義の父」と称される実業家として多くの事業に携わる一方、福祉の草分けとして活躍した人物です。
慈善事業に資金援助するのみならず、生活困窮者らの保護施設「東京養育院」の院長を務め、全国社会福祉協議会(当時は中央慈善協会)の初代会長にも就きました。
また、わが国初の知的障害児の教育施設「滝乃川学園」が経営困難に陥った際には、同学園の理事長として立て直しを図り、生活保護法(当時は救護法)の実施に向けても尽力するなど、日本の福祉分野の黎明期を支えました。
新一万円札の肖像にも採用された渋沢栄一。その志に倣い、「だれ一人取り残さない」という想いの下、福祉の拡充に力を尽くす当社ですが、なんと今回、代表・高浜敏之の親戚宅が「青天を衝け 紀行」のロケ地として使用されるという、新たなご縁がありました。また、渋沢栄一とかかわりの深い興譲館(現在の興譲館高校)のグラウンドは、同じく高浜代表の親戚筋が寄贈したものです。こうしたご縁の下、現在、井原で開催されている「渋沢栄一と井原」展より、事業のさらなる拡充に向けた知見を得るべく、井原市文化財センター・首藤ゆきえ氏にお話を伺いました。以下、首藤氏のインタビューです。
(1)「渋沢栄一と井原」展
井原市教育委員会の文化財センターでは、2021年7月1日から来年1月30日にかけて、「渋沢栄一と井原 ~栄達の道(サクセスストーリー)は井原から~」と題して、特別展を催しています。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」に合わせて、渋沢栄一と関係の深い井原に市外の方もぜひ来ていただきたいとの想いより、長期開催となりました。
井原と渋沢との結びつきはあまり知られていませんが、井原市の西江原町に一橋領の陣屋があり、そこにまず訪れていますし、地元には様々なエピソードがあります。農兵募集にまつわる話はもちろん、村人が渋沢をモミジの名所である天神峡に招いて宴会したなど、渋沢の人柄が垣間見える事柄も残されています。
市民の方や県内の方、そして県外からも近くにお立ち寄りいただけることがあれば、ぜひ特別展に足を運んでいただければと思います。
(2)井原と渋沢栄一
渋沢栄一は若い頃、一橋慶喜に仕えていた平岡円四郎に見い出され、農民から一橋家の家臣となりましたが、その時代に、最初の大きな役目として井原市が含まれる備中一橋領に来ています。
当時、慶喜は京の町や天皇の周辺を守るという重要な役目を負っていましたが、一橋家の兵備は非常に薄く、銃を扱える兵の確保に迫られていました。そこで、渋沢が一橋領から「農兵」を集めたらよいと献策、慶喜に認められ井原へとやってきます。
井原に来た当初は、なかなか農兵の募集が上手くいかなかったようです。農兵を集めるルートは代官から庄屋、実質的には庄屋が声を掛けて集めるというものですが、代官が募集しなくていいと秘かに庄屋に命じていたらしく全く応募はありませんでした。そこで渋沢は腰を落ち着けて募集することを決め、地元にある興譲館という漢学塾の阪谷朗廬(ろうろ)と親交を深めます。朗廬は、江戸で学問をした非常に優れた漢学者で、開けた考えの持ち主でもあり、奇しくも後に渋沢の女婿となる阪谷芳郎の父です。
興譲館は領民、つまり農民が通える学校で、渋沢はここの塾生とも親しくなり、共に鯛網漁に出かけたりなどして、まずは塾生から農兵を集めます。25、6という若者ながら、正規のルートがダメなら他の方法を編み出す手腕や、地元の尊敬の篤い朗廬との親交などで、渋沢はまず領民の信頼を勝ち取った上で再度代官にかけ合い、備中一橋領からまず151名の農兵を、そして他の西国の領地もめぐって450人ほどの農兵を集めました。
自分が仕えることとなった一橋家の状況を見て、弱点を補うような献策をし、しっかりと成果に結びつけたことが、渋沢が認められるきっかけになったと思いますし、渋沢のサクセスストーリーが井原から始まったと言える所以です。
<農兵のその後>
断片ですが、残っている農兵からの手紙を見ると、京に行き、二年ほど銃の訓練を積んでいたようです。その後、鳥羽伏見の戦いで幕府軍と薩長連合軍が戦いますが、この鳥羽伏見の戦いが、ほとんどの農兵にとって最初の戦いになるかと思います。その後、戊辰戦争に従軍していた農兵もいました。
そこから50年以上経ってから、農兵だった人物が渋沢栄一に当時の状況を記した手紙を出したりもしていますし、農兵の記念碑を建てた方もいます。若い彼らにとって非常に強烈な体験ですし、農民といえども幕府軍の一員との気持ちで戦っていて、明治になって賊軍と言われるのが悔しかったと手紙には書かれています。その後の一生の心持ちや運命が、渋沢によって大きく変わったと言えますね。
(3)垣間見える商才
渋沢は西国の領地を回る中で、特産物にも目を向けます。例えば播磨の木綿などはより高く売れるように、扱う商人を厳選すべきだとか、年貢米についても、コメの品質が良いので、酒造りで有名な灘に回すようにしてはどうかなど、より儲けのある販売の仕方を色々と勧めているようです。備中では、火薬の原料になる硝石を作ったらどうかと考え、動いていたようで、その後の商才の片鱗を伺わせるエピソードが残っています。
(4)渋沢と福祉
井原で福祉との関連は見られませんが、優しい人柄のエピソードは残っています。例えば、ある村で食事をしたときに、給仕をしてくれた子どもを高い高いとあやしたというものとかです。
渋沢は東京の養育院の運営にも50年以上携わっていますが、これも元は幕臣時代に縁のあった大久保一翁に頼まれたことがきっかけだと聞いています。そしてその財源となった「七分積金」というお金は、松平定信が困窮者救済のために設けた制度で、江戸の町民が蓄えたものです。渋沢は松平定信の覚悟を理解し、生涯を通じて大変尊敬していました。
尊敬する人や関係のあった人との縁を大切にする、恩を忘れない人柄が渋沢の素晴らしいところであり、「儲けることと人の幸福を追求することは両立する」として、それを実践している部分が、福祉との関りに現れていると思います。
■さいごに~大庭竜也が見る井原の良さと地方創生~
井原は心の優しい方が多いと思います。歩いて道路を渡ろうとすると、必ず車が止まってくれ、道端で談笑しているご高齢の方は、元気って話しかけてくれる。郵便局や地元の運送会社の方も、阿吽の呼吸で進めていってくれます。
このゆったりと時間が流れる優しい街で、井原の方々がもっと住みやすくなるように、より地域にコミットして地方貢献を果たしていきたいです。
井原にある企業とのコラボや、若者が就職したいと思える企業を目指すことで、雇用の創出、それによる年齢層の若返り化と地域定着を図り、地方活性化の一助となればと思っています。
地域にある企業だからこそできることがあると思いますので、企業理念にもある「小さな声」を、井原の人々の中からも探し求めていきたいです。
そして、渋沢栄一が井原から全国へと活躍の場を広げたように、当社もここ井原から全国へ重度訪問介護事業を展開し、渋沢栄一の想いを受け継いで、「土屋のサクセスストーリーは井原から」と言えるような未来を築いていきたいですね。
是非当社ホームページ、Twitter・YouTubeをご覧ください。
→法人公式サイト
https://bit.ly/tsuchiya_press20210727
→法人公式Twitter
https://twitter.com/tcy_honsha
→公式YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCboj8uAyr_W7Vw4kT9HS7ng
■会社概要
会社名 :株式会社土屋
所在地 :岡山県井原市井原町192-2 久安セントラルビル2F
代表取締役:高浜 敏之
設立 :2020年8月
事業内容 :障害福祉サービス事業及び地域生活支援事業、
介護保険法に基づく居宅サービス事業、
講演会及び講習会等の企画・開催及び運営事業、研修事業、
訪問看護事業