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日本とドイツをつなぐ2枚の皿 伊万里焼がたどった数百年の旅


 佐賀県立九州陶磁文化館(有田町)と伊万里・鍋島ギャラリー(伊万里市)がそれぞれ収蔵する伊万里焼の皿が、江戸時代に13枚セットでドイツに輸出され、東洋磁器を愛した王のコレクションの一部になっていたことが、日本の研究者の調査で判明した。購入ルートも時期も異なる2枚の皿は数百年の時をどのように旅してきたのか。

 調査したのは武蔵野美術大非常勤講師で美術史家の櫻庭美咲(さくらばみき)さん(日欧美術工芸史)ら。ドイツ東部ザクセン州のドレスデン国立美術館磁器コレクション館が収蔵する、日本と中国の磁器約8200点の全貌をデジタル化して公開する国際共同研究プロジェクトのメンバーとして調査した。

 収蔵品はザクセン選帝侯アウグスト強王(1670~1733年)が集めたもの。強王は1710年にドイツ・マイセン窯を設立させた事でも知られる。

 櫻庭さんらが同館を訪ねるなどし、約8200点の中で日本製は1203点、このうち1196点が伊万里焼だと分かった。

 伊万里焼は江戸時代に今の有田町とその周辺で作られた磁器で、1610年代に創始されたとされる。中国磁器や伊万里焼などが大量にもたらされた17世紀以降、美しく絵付けされた純白の磁器は、欧州で人気を博した。

 アウグスト強王は1717年、「オランダ宮」と呼ばれていたドレスデンの城を購入。改修して「磁器の城」とする構想を抱いた。当時、欧州では宮殿に「磁器陳列室」を設けることが流行していた。強王には自身の権威を世界に発信する狙いもあったようだ。

 オランダ宮はその後「日本宮」と呼ばれ、膨大な数の磁器が集められた。だが、急逝したアウグスト強王を継いだ息子は、コレクションに興味が無かった。改修は未完に終わり、磁器も1763年ごろ撤去された。

 ただし、王のコレクション目録が生前の21~27年、死後の70年、79年の計3回作成され現存している。79年の目録には約3万9000点(うち東洋製約2万9500点)が記載され、ドレスデン国立美術館に引き継がれたのが約8200点ということになる。

 作品の底面には「パレスナンバー」と呼ばれる記号と番号が記され、目録にも記載された。「日本磁器」なら記号は「+」だ。国際共同研究プロジェクトでは、パレスナンバー入りの磁器の所在を確認する作業もした。

 櫻庭さんは2017年に伊万里焼を所蔵している日本国内の24機関にアンケートするなどし、九州陶磁文化館に4点、出光美術館(東京)に2点など少なくとも4機関に計8点あることを突き止めた。また、パレスナンバー入りのマイセン磁器も日本で確認された。

 伊万里焼のうち、九州陶磁文化館と伊万里市の「色絵鳥幕桜牡丹文輪繋透皿(いろえとりまくさくらぼたんもんわつなぎすかしざら)」には「N:316+」とあった。

 ドレスデン国立美術館によると、このパレスナンバーは1779年の目録に載っている。ドイツ語で「皿13枚、鳥と花が描かれ縁に透かし模様、さまざまな大きさ。1枚破損、No.316」と書かれ、2枚が13枚セットの一部だと分かる。

 この皿は、他の多くの伊万里焼の収蔵品と同じように17世紀末から18世紀初頭の伊万里焼に成立した染付に色絵と金彩を用いた「金襴手(きんらんで)」と呼ばれる様式で作られている。櫻庭さんによると、これまでの伊万里焼の研究から、皿は00~30年に製作されたとみられ、最初の目録が完成した27年から、王の死去6年後までにコレクションに加わったようだ。

 皿はどうやってヨーロッパへ渡ったのか。

 江戸時代初期まで磁器の主要産地は中国だけで、日本も欧州も中国から輸入していた。しかし、1610年代になると有田一帯で生産が始まった。江戸幕府は1639年にポルトガル船来航禁止令を出すなど鎖国政策をとり、中国とオランダ以外の外国人の渡来と貿易を禁じた。

 当時の中国は、明から清への移行期にあたり磁器の輸出が激減。さらに44年に北京に遷都した清は当初、海外との貿易を制限したため、有田の磁器が注目されるようになった。 櫻庭さんは「伊万里焼はヨーロッパで非常に人気があり需要が高かったため、13枚の皿も有田で製作されすぐに輸出されたのではないか」とみる。

 そして、金襴手様式の磁器が生産された時期や、金襴手が欧州向けだったことなどから「中国人の船により長崎から輸出され、さらにオランダ船でオランダに運ばれた可能性が高いのでは」と話す。

 強王のコレクションは、ほとんどオランダで買い付けられていたという。一方、オランダ東インド会社は既にこの時期、欧州向け日本磁器の公式輸出をやめていた。

 13枚がバラバラになった経緯は不明だが、櫻庭さんによると、セットの作品の多くは「重複品」として1853~54年に売却された。度々起きた戦乱も散逸の要因だという。

 そして、欧州の個人や博物館に渡った皿が売りに出され、それを購入した日本人が持ち帰ったとみられる。日本に今ある欧州向け伊万里焼は「里帰り伊万里」と呼ばれるが、ほとんどがこのケースだという。

 九州陶磁文化館の皿は1982年に京都の古美術商から購入したが、来歴は不明。伊万里市は99年に市内の古美術商から皿を購入した。しかし、既に店主は亡くなっており経緯は聞けなかった。

 ただ、櫻庭さんは「2枚が日本にあるぐらいなので残り6枚が世界のどこにあってもおかしくない」と言う。

 また、今回の国際プロジェクトについて「コレクションの伊万里焼のうち金襴手が7割を占めていたことに驚いた。現代の人には過剰とも思える金襴手だが、当時のドレスデンではその美が高く評価され、日本宮における陳列の中心的な役割を担っていたことが分かった」と話す。

 ドレスデン国立美術館はプロジェクトの成果をインターネット上で公開した(https://royalporcelaincollection.skd.museum/home)。

 櫻庭さんらと調査した九州陶磁文化館名誉顧問、大橋康二さんはプロジェクトについて「強王のコレクションは、有田からヨーロッパに行った伊万里焼のコレクションとして古くから知られていたが、初めて全体像が明らかになった」と意義を強調。「(伊万里焼の)上絵付け用の赤絵窯は1700年ごろに窯などが変化したことが分かっていたが、理由ははっきりしなかった。それがコレクションやその年代と対比させることで、ヨーロッパの宮殿に飾る大きなつぼなどを作るための対応だったことがはっきりした。今回のプロジェクトは、有田や伊万里焼の歴史を考えるうえでも重要なものだ」と話した。【西脇真一】

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