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ソ連兵による略奪、零下20度…旧満州で敗戦迎えた女性の逃避行


 78年前、旧満州(現中国東北部)で敗戦を迎え、ソ連軍の侵攻の中、引き揚げてきた尼崎市の大中京子さん(96)が苦難の逃避行や避難民となった暮らしぶりを語る講演会「いま話したい満州体験」が25日午後1時半、尼崎市の東園田町総合会館で開かれる。

 大中さんは5歳の時、満州国の官吏となった父に連れられ、母、7歳上の兄とともに奉天(現在の瀋陽)へ渡った。旅順高等女学校を卒業後、1945年8月には父が転勤した開魯という街で小学校の代用教員をしていた。

 ソ連が同8日に対日宣戦布告し、翌9日に侵攻が始まった。校長は10日朝、児童を前に「とうとうソ連軍が攻めてくる」と伝え、防空壕(ごう)を掘る作業を始めた。食糧事情は悪くなったが、空襲などは経験していなかった。

 その日、校門を出ると、父が馬車で迎えに来た。ソ連の戦車隊などが隣接の集落に迫ったため、軍から避難の緊急命令が出て、街の日本人全員が退去することになったという。

 避難者を引率する立場の父とは離れ、身支度をする間もなく、母とともに東に約80キロ離れ、鉄道の通る通遼の街を徒歩で目指した。水すら満足に飲めず、ソ連の飛行機におびえながらの逃避行。「大きいおなかで子どもの手を引き、赤ちゃんをおぶっている人もいて、本当にかわいそうだった」と振り返る。

 3日かけて通遼にたどり着くと、翌朝、急造した避難用の無蓋(むがい)貨車で、さらに東にある通化の街に向かった。女性や子どもがほとんどで乳児の多くが亡くなり、埋葬もできず遺体を背負ったままの母親もいた。

ライフル銃を突きつけられ

 通化に着いた15日、一行は敗戦を知らされた。引率役から「自決も覚悟してください」と伝えられ、緊張が走った。その後、駅近くの日本企業の寮に落ち着き、父も合流した。しかし、預金を引き出す前に銀行が封鎖され、財産は失った。

 通化には、ソ連軍が進駐し、武装解除も始まった。ソ連兵による日本人住民への略奪、レイプが続出。大中さん一家の部屋にもソ連兵が日本の脱走兵捜索の口実で入り、ライフル銃を突きつけられた。1人の腕には、避難民から巻き上げたとみられる腕時計がびっしり。父が時計を外して渡すと出て行った。

 地元住民による暴動も発生し、緊急避難列車が準備され、大中さん一家も乗り込んだ。列車が止まると乗降口に暴徒が来るので、女性と子どもは中央、男性は端に乗った。大中さんはわざと汚した手ぬぐいを頰かぶりした。子連れは見逃されるというので、近くにいた子どもを膝に乗せた。坊主頭にした女性もいた。男性は手荷物をひったくられ、着ている物をはぎ取られた。

偶然が重なって帰れた

 到着した奉天では、民間アパートに落ち着いた。親子3人で一つの夜具にくるまり、部屋を暖める燃料にも困る暮らし。零下20度の街で露店を出し、たばこや駄菓子などを売って食いつないだ。

 46年春には、奉天に中国・国民党軍が進駐。大中さんが家で留守番をしている時に、将校が入ってきたが、親子が寄宿していた家の奥さんに助けられたこともあった。日本人女性は狙われていて、危ういところだった。5月には日本人の帰国が許され、大中さんたちは船で帰国した。

 だが、関東軍にいた兄は、ソ連軍と終戦後の8月26日まで戦闘を続けた虎頭で戦死した。「すべて運ですよ」。父が同行していたこと、港に比較的近い奉天にいたこと……、そんな偶然が重なって生きて帰れたと振り返る。

 帰国後、大中さんは中国語を勉強し、中国残留孤児の支援などをした。戦争が二度と起こらないように願い、旧満州の旅順高等女学校の同級生だった芹川怜子さん(故人)と81年には「落日の難民」という本を自費出版して、体験を記録した。大中さんは「命は大切」と話す。

 無料、先着100人。地域の文化や歴史を学ぶ猪名川倶楽部主催(宗景さん090・7366・5915)。【亀田早苗】

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