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100年の盛衰 「炭都」夕張の息づかい感じて 石炭博物館


 古いエレベーターで地下に降り、扉が開くと、目の前に薄明かりに照らされた一本道が浮かび上がる。両端に立つ炭鉱夫が削岩機を握り、漆黒の闇に向かって勢いよく石炭を切り出す。ここは北海道夕張市石炭博物館の地下展示室。すぐに炭鉱夫はマネキンと気づかされるが、そのリアルさに息づかいさえ聞こえてきそうだ。

 1888(明治21)年に石炭の鉱脈が発見され、炭鉱が開発された夕張。大小24の鉱山を有し、1960年に人口がピークの約11万7000人に達した。64年に年間出炭量400万トンを突破して道内の石炭生産の約20%を占めるほどになり、夕張は「日本の炭都」として発展を遂げた。

 館長の石川成昭さん(61)は坑内で実際に使用された採炭機械を見つめながら、「たった100年の間に繁栄と衰退が凝縮されたこの夕張で、近代国家の礎を築いた石炭産業のダイナミズムを感じることができる」と石炭博物館の魅力を語る。

 80年7月、市の第三セクターとしてオープン。エネルギー革命の波に押され、「炭鉱から観光へ」を合言葉に、遊園地なども併設された「石炭の歴史村」の中核施設だった。ランドマークの「立て坑やぐら」は当時、最新鋭炭鉱として夕張の期待を一身に背負っていた北炭夕張新炭鉱の立て坑を模したものだった。

 しかし、開館からわずか1年後の81年10月16日、その北炭夕張新炭鉱で悲劇が起こる。90人以上の犠牲者を出す大規模なガス突出事故が発生したのだ。石炭産業はその後、斜陽化の一途をたどり、全炭鉱が90年までに閉山した。それでも市は観光業で盛り返そうとしたが、2006年に巨額の負債が発覚し、市の財政は破綻。07年に財政再建団体に指定された。

 石炭博物館は財政破綻で休館になるなどし、何度も存続の危機に直面した。だが、民間や市民の力で運営を続けてきた。そして、18年4月、開館以来初の大規模改修を終えてリニューアルオープン。石炭産業の盛衰と地域再生へ向かうマチの歩みを発信する施設として生まれ変わり、約一カ月半で来館者が1万人に達する見事な「復活」を遂げた。さらに、19年5月、空知の炭鉱、室蘭の鉄鋼、小樽の港湾を結ぶ鉄道からなる歴史と産業遺産の物語「炭鉄港(たんてつこう)」が文化庁の「日本遺産」に認定された。

 石川さんは学芸員でないが石炭博物館の歴史を振り返り、ある人の言葉を思い出す。「炭鉱とは、困難を幾度も乗り越えるものだ」。18年度に指定管理者となったNPO法人炭鉱(ヤマ)の記憶推進事業団(岩見沢市)の理事長で、館長を務めた吉岡宏高さんの言葉だ。22年11月、59歳の若さで亡くなった。炭鉄港という造語を生み、遺産認定を実現した功労者だった。

 「倒れる数十分前に電話で話し、新たな活動について楽しそうに話していたのが今も忘れられない」。石川さんは25年ほど前に吉岡さんと知り合い、NPOで活動をともにした。そして、バトンを受け取った。

 4月22日に石炭博物館は23年度のオープンを迎えた。石川さんは力を込める。「炭鉱は悲劇を含めて復活するという吉岡の思いを大切に、炭都の歴史を後世に伝えたい」。19年4月に火災に見舞われた「模擬坑道」も今秋の再開を目指す。盛衰を経験した100年。人々の心に刻まれたヤマの灯(とも)りは今も消えずに残っている。【真貝恒平】

石川成昭(いしかわ・しげあき)さん

 東京都出身。日大理工学部卒業後、加森観光に就職。スキー場開発に携わった後、建設コンサルタント会社で歴史建造物の修復などを担当。中学時代から炭鉱に興味があり、曽祖父は札幌農学校(現北海道大)出身で、道内の鉱物資源の地質調査に従事した。札幌市在住。

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