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人生の旅立ち、本土に託す=沖縄集団就職、復帰前後に本格化―島の情景支えに


 1972年の本土復帰前後、高度経済成長の波に乗り、沖縄からの集団就職が本格化した。「本土に骨をうずめる」。決意を胸に古里を離れた若者らは、島の情景を心の支えに奮闘してきた。  69年3月11日、見送りの横断幕とテープがなびく那覇港から、集団就職者を乗せた船が出航した。当時18歳で、現在は東京都内の広告代理店社長を務める伊豆味文明さん(71)も乗船者の一人。「簡単には帰れない。東京で一旗揚げる」という気持ちだった。  沖縄本島北西の離島、伊平屋村出身で、8人きょうだいの3番目。「広い世界で挑戦したい」と本土行きを決意し、高校卒業後に神奈川県の自動車部品メーカーへ就職した。  当時の琉球政府の資料によると、沖縄では57年から公共職業安定所を介した本土就職が始まった。同年の就職者は122人だったが、70年に1万人を突破。当初は中卒が多かったが、60年代後半から高卒も増えた。  伊豆味さんと同期入社の沖縄出身者は約50人いた。元上司の伊藤昭一さん(79)は「伊豆味は優秀で、将来の目標を持って働いていた」と話す。仕事は順調そのものだったが、父親が急逝したため20歳で帰郷。その後、骨をうずめる覚悟で再び上京し、都内の広告代理店に就職した。  一家の大黒柱として母親に仕送りし、大学生だった弟の学費も工面。「いつも金がなかった」と振り返る。仕事先では「沖縄の人はすぐ辞める。真面目じゃない」という心無い一言に傷つくこともあったが、気持ちは負けずに仕事を続けた。  その後独立し、76年に広告代理店「あすなろ報創」を創立。「あすはヒノキになろう」と社名に思いを託した。現在は社員14人を抱え、沖縄に関する広報活動にも尽力する。  半世紀前、高揚感を持って後にした古里。つらい時や頑張らないといけないと思った時、沖縄の思い出や情景を支えにしてきた。「スポーツや芸能などの分野で沖縄出身の著名人が増えた。これからもっとレベルアップしてほしい」と故郷にエールを送った。 (了)【時事通信社】
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