
巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。
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記者生活40周年、いろいろな担当をさせてもらったが、憧れのスーパースター長嶋茂雄の番記者として取材させてもらうことはかなわなかった。ただ、一緒に取材をしたことはある。
今から37年前の1988年(昭63)、ゴルフの“世界のエオキ”青木功さん(82)の番記者として全英オープンを取材した。米PGAツアーで青木さんに帯同すること1カ月。青木さん本人や夫人のチエさんに“通訳”を務めてもらったりしながら、英語のヒアリングにも慣れて全英取材に乗り込んだ。
舞台はイングランドのブラックプール郊外のロイヤルリザム&セントアンズ・ゴルフクラブ。ネットのない時代、イギリスは時差が日本より8時間も遅れていることもあり、各社の取材陣も野球記者や広告担当が来てのんびりしていた。メインは1982年(昭57)から全英オープン中継を始めて、7回目のテレビ朝日だった。
チエ夫人と青木さんを“応援”しながらの練習ラウンド取材。甲高い声が聞こえてきた。1980年(昭55)のオフに巨人軍監督を辞任して、浪人中だった長嶋さんだった。テレビ朝日のリポーターとして取材に訪れていた。「長嶋茂雄」と「青木功」、日本を代表するレジェンドの絡みに興奮を抑えきれなかった。ショットの合間に声を抑えてリポートするのだが、長嶋さんはいかんせん声が甲高い。「長嶋茂雄」のことなど知りもしない現地のファンが「シーッ」と唇に指を当てると、申し訳なさそうにしていた。
ラウンドも終わり、ドライビングレンジでのショットのチェック。青木さんのショットをそばで眺める長嶋さんに日本ツアーに参戦中だったイアン・ベーカーフィンチがちょっかいをかけた。長嶋さんが首から提げた「PRESS」の取材証を「プレース、プレース」と言いながら押すと、あの笑顔で笑っていた。
原稿を送り終わって、青木さんに呼ばれて中継車のようなテレビ朝日のブースに行った。そこに中継担当の森下桂吉アナウンサーとともに長嶋さんがいた。青木さんに紹介されて、ドキドキしていると「今は時間があるから、いろいろな事をやろうと思ってるんですよ。また、ユニホームを着たら、こういうところへは来られませんからね」とニコニコしながら話してくれた。そして「アメリカから青木さんに付いて来たんですか。すごいですね、一緒に頑張りましょう」と励ましてくれた。
初日が始まって青木さんはコースでゴルフ、そして長嶋さんはコース内でマイクを握ってリポートした。それを感激しながら眺めていた。朝、昼、夕方と顔を合わせるたびに、長嶋さんはあの笑顔であいさつを交わしてくれた。「長嶋茂雄番記者」は、優秀な野球記者がたくさんいる。でも、「長嶋茂雄」と取材者として、しかもゴルフで一緒になった記者はそうそういないだろう。ことあるごとに思い出にひたっている。
子供の頃から大好きだった長嶋さん。ありがとうございます。ご冥福をお祈りします。【小谷野俊哉】