幕末の志士・坂本龍馬が暗殺される5日前に書いたと見られる手紙が新たに見つかったと1月13日、都内で行われた「志国高知 幕末維新白」開幕事前記者発表会で、高知県が発表した。
文中には、今まで発見された龍馬の手紙で初めて「新国家」という言葉が使われているほか、新政府を支える人材の人事に尽力していたことを示すものとなっている。坂本龍馬の研究を行っている京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は、「坂本龍馬の活動を示すものとして貴重であり、最後まで新政府樹立(新国家の建設)に専心していた様子をよく示すものである」と、その価値の重要性を説く。
この手紙は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。
縦16センチ、横93センチほどの細長い和紙に毛筆で字が記された新発見の手紙の全文と現代語風訳。読みは、佛教大学非常勤講師・高田祐介氏による。
全文 現代語風
一筆啓上仕候 一筆啓上差し上げる
此度越前老候 このたび越前の老候(松平春嶽候)が
御上京相被成候段 御上京なられたことは
千万の兵を得たる 千万の兵を得たような
心中に御座候、 心持でございます。
先生ニも諸事 先生(中根雪江)にも諸事
御尽力御察申上候 ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
然るに先頃御直ニ しかしながら先頃直接
申上置キ三岡 申し上げておきました三岡
八郎兄の御上京 八郎兄の御上京、
御出仕の一件ハ急を 御出仕の一件は急を
用する事に存候得ハ 要する事と思っておりますので、
何卒早々御裁可 何卒早々に(越前藩の)御裁可
あるべく奉願候、三岡 が下りますよう願い奉ります。三岡
兄の御上京が一日 兄の御上京が一日
先に相成り候得ハ 先になったならば
新国家の御家 新国家の御家計(財政)の
計御成立が一日先に 御成立が一日先に
相成候と奉存候、 なってしまうと考えられます。
唯此所一向ニ御尽力 唯、ここの所にひたすらご尽力
奉願候 をお願いいたします。
誠恐謹言 (まことに恐れながら謹んで言います)
十一月十日 龍馬
中根先生 中根先生
左右 左右
追白 今日永井玄藩 追白 今日永井玄藩
頭方ニ罷出候得とも 頭(永井尚志)方へ訪ねていったのですが
御面会相不叶候、 御面会は叶いませんでした。
談したき天下の (永井殿と)談じたい天下の
議論数々在之候ニテ 議論が数々在りますので
明日又罷出候所存ニ 明日また訪ねたいと考えている
御座候得ハ ところですので
大兄御同行相叶候ハゝ 大兄も御同行が叶いますならば
実二大幸の事ニ奉存候 実に大幸に存じます。
再拝 再拝
(封紙)
越前御藩邸
中根雪江様 才谷楳太郎
御直披
(封紙に朱書付箋あり)
「坂本先生遭難直前之
書状に而他見ヲ憚ルモノ也」
【京都国立博物館 学芸部 上席研究員 宮川禎一 手紙のポイント】
1.今回の書状真筆と鑑定したポイント
・書状の内容が、龍馬の前後の活動に照らし合わせて整合性が認められる。
・書状の文字が、これまでの龍馬直筆の書状と照らし合わせた結果、龍馬のものと判断できる。(※編注:特に「越行の記」から、この文脈を書けるのは間違いなく龍馬である。)
・筆跡・内容ともに疑わしい要素は全くない。
・佛教大学 青山忠正教授、福井市立郷土歴史博物館 角鹿尚計館長、高知県立坂本龍馬記念館 三浦夏樹学芸員など複数の歴史研究者が実物と写真を見ているが、全員そろって真筆と認めている(異論はない)。
2.書状に関する基本情報
・書状は折り畳まれて、封紙に入った形で見つかった。オリジナルの(ウブな)まま。
・封紙に「坂本先生遭難直前之 書状に而他見ヲ憚ルモノ也」の朱書付箋あり、この付箋をいつだれが書いたのかは不明・要見当。
・封紙の名は「才谷楳太郎」。書状内は「龍馬」。(※編注:龍馬は、「梅」に「楳」の字を使っていた)
・龍馬は京都を10月24日に発って福井に向かった。28日に福井到着。福井で三岡八郎と長時間話をしたあと、11月3日に福井を発ち、5日に京都へ戻ってきたところ。(その直後に三岡を新政府に推薦する「越行の記」を京都で書いた)
・松平春嶽は11月2日に福井を発ち、11月8日に京都に到着。中根雪江は遅れて11月5日に福井を出立、8日頃入京か。
・内容は上京したばかりの中根雪江に「春嶽候の上京に中根が尽力してくれたお礼を述べるとともに越前藩士三岡八郎の新政府出仕について重ねて懇願するもの」。
・内容は3年前に出現して話題となった「越行の記」の続きとすることができる。
・「越行の記」とこの新出書簡をみると龍馬はすでに福井で中根雪江に会っていたはず。
・新国家の建設に財政担当者として三岡八郎が適任なので越前藩内の手続きを進めて、ぜひ出してほしいと強調している。
・「新国家」という言葉がつかわれていることがとても重要。龍馬の他の手紙では見たことがない。 用語用法の成立についての検証は必要だが、その概念は素直に「新国家」としてもよさそう。
・「三岡兄の上京が一日遅れれば、新国家の御家計(財政)の成立は一日遅れる」、との表現が面白い。
・龍馬は11月はじめに福井で会った中根雪江に三岡八郎の新政府出仕を直接申し込んだらしいが、その際の中根の返事ははかばかしくなかったことを推察させる。なので、上京直後の中根に再度、三岡の上京を越前藩として許可するようにこの手紙で頼んでいる。(中根に手紙を出すことは春嶽に出すのと同じ意味であろう)
・文末に近いところで、明日(11月11日)に幕臣永井玄蕃(永井尚志)に面会する予定たせという話は、龍馬の次の日の林謙三宛ての手紙に「永井に面会した」と書いてあるので、時間的にもきちんと符合する。
・この書簡が150年も出てこなかった理由は、封紙に付箋があり、そこに朱書で「坂本龍馬先生遭難直前の書状にて他見を憚るものなり」とあるからであろう。明治時代のいつかの段階でこの手紙は人に見せてはいけない、との判断がなされていた(誰がいつ付箋にそう書いたかは不明・要検討)
・三岡八郎の京都到着はこの1ヶ月も先の12月半ばのことであり、この間のタイムラグには様々な理由があったと思われるが、越前藩内に三岡八郎の新政府出仕に反対するもの(中根も含まれるか)の存在が推察されるために「他見を憚る」可能性が考えられる。(特に三岡八郎に知られるのは良くないはず)
・越前藩の松平春嶽の上京は土佐藩の山内容堂・後藤象二郎や龍馬らの推進する大政奉還建白書に基づく公議政体論推進派には大きな追い風になったため「千万の兵を得た心持ち」と書いたのであろう。
3.今回の書状における歴史的価値
・三岡八郎を高く評価し、新政府に出仕させるため粘り強く根回しをしていたことがわかる手紙。
・龍馬は死の直前まで「新国家」の建設、とくに財政問題の解決に邁進していたことをよく示している(もちろん龍馬に死ぬつもりは全くないが、日々、身の危険は感じていたはず)。
・龍馬と越前藩とのかかわりに関する研究が一層進展するはず。
・また、越前藩重役で松平春嶽側近の「中根雪江」という人物の歴史的役割がより明らかになってくるはず。
・今後の幕末史研究・坂本龍馬研究の進展が期待できる重要な資料。
5.これまで発見された他の坂本龍馬の書状・資料との違い
・全くのウブな状態で発見されたこと(書状の多くは保存のため巻子や軸装されている)
・龍馬の越前福井行きの目的がはっきりと書かれていること。
・「越行の記」では京都帰着後に三岡八郎を新政府に推薦しているが、新政府からの召状だけでは動かないとみて、改めて越前藩重役の中根に藩内手続きを懇願する内容。龍馬の目的とそれを達成しようとする行動力の大きさが改めてわかる。
・「越行の記」の文末には「追日、中根雪江は越老候の御供、村田巳三郎ハ国にのこる、家老ハ可なりのもの出るとのこと、再拝々」とあり、福井で中根に会ったことを推察させるとともに今回の書簡では「然るに先頃御直ニ申上置キ三岡八郎兄の御上京出仕の一件ハ~」とあることからも龍馬は福井で三岡八郎と丸一日話し合ったふと、中根雪江に面会して三岡八郎の京都出仕を懇願したらしいことが分かる。すなわちこの手紙は「越行の記」の続きであり、並べると意味がより一層よくわかる(ちなみに「越行の記」は2月5日まで長崎市歴史文化博物館の「没後150年 坂本龍馬」で展示中)。
【京都国立博物館 学芸部 上席研究員 宮川禎一 解説】
慶応三年十月十四日の徳川慶喜による朝廷への大政奉還を受けて、坂本龍馬や後藤象二郎、海援隊関係者らは朝廷中心の新政府樹立に向けた活動を活発におこなっていた。坂本龍馬は新政府になんら財源がないことを憂いて、旧知の越前藩士三岡八郎を新政府の財政担当者として出仕させるために、十月末から十一月初旬に福井を訪ねて、藩の罰で幽閉中の三岡八郎に面会し、新政府の財政のあり方を詳しく聞いた。このことは近年発見された「越行の記」に詳しい。
この新出の書簡は京都の越前藩邸に居る越前藩重役の中根雪江(ゆきえ・せっこう)にあてた龍馬直筆のもので封紙まで当時のまま残っているところも貴重である。日付は慶応三年「十一月十日」である。(越前藩前藩主の松平春嶽は十一月二日に福井を出立し、十一月八日に京都到着で、中根も同時期に上京した。龍馬の方は十一月三日に福井を発ち五日に京都到着)この手紙は近江屋で龍馬が暗殺される五日前に書かれたものである。内容は越前藩重役の中根雪江に春嶽候上京に関して尽力したことへのお礼と三岡八郎の新政府への出仕を一日でも早くするようにとの懇願である。
徳川親藩である越前藩の松平春嶽が朝廷の召しに応じて大政奉還後の京都に入ったことは公議政体論派からは歓迎すべきことであり、龍馬が「千万の兵を得た心持」とかくことはうなずける。その春嶽上京に関して中根雪江が「ご尽力」したことに龍馬は感謝を述べている。
(※宮川氏の補足解説:10月の「大政奉還」から12月9日の「王政復古の大号令・小御所会議」までの間、朝廷から全国の諸藩に「大名は京都に集合せよ」という呼びかけに対して、“まだどうなるかわからない、混沌とした京都に行っていいのか悪いのか”と、諸藩は日和見をしていた状況。春嶽候は行く気持ちがあったが、重役たちはまだ行かないほうがいいと、福井藩の中でも割れていた。そんな中、春嶽公の上京の話をまとめたのが、中根雪江。新政府側にとって諸藩の支持が得られるかどうかは大きな問題だった。そんな中、世間から見ても“幕末の四賢侯” の一人といわれる名君の誉れ高い、あの春嶽公が京都に行くということは、(新政府への)支持の現れなので、(新政府側にとっては非常に)ありがたいこと)
その一方、龍馬が福井で三岡に面会後、中根雪江にも面会し、三岡八郎の新政府出仕を直接懇願したのだが、どうやら色よい返事はもらえなかったらしい。そこで上京してきた中根に改めて「先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の御上京、御出仕の一件」を重ねて懇願しその「御尽力」を要請している。
「越行の記」にあるように龍馬は十一月五日の帰郷後、新政府上層部に三岡八郎を新政府に出仕させるように強く推薦していた。その結果、岩倉具視ら新政府首脳から越前藩へ出仕を求める連絡(最初は十一月六日に召状が出ている)が何度も出るのであるが、藩内の事情のためかなかなかその話は進まなかった(三岡は文久三年以来藩の罪人として長期幽閉中であった)。実際に三岡が京都に来たのはこの一月あまり後の十二月半ばのことになった(龍馬の死後のこと)。このタイムラグの存在が越前藩の内部事情(三岡を出すことに反対する勢力[中根を含む]も大きかったらしいそれで出仕の命令が三岡に伝わるのがかなり遅れた)を推察させるために後日誰かが「他見を憚るものなり」と朱書付箋をつけたものと考えられる。それが百五十年もの間この手紙が世に出なかった要因であろう。
手紙文中に「新国家」という単語が出てくるのがまことに重要である。坂本龍馬の活動を示すものとして貴重であり、最後まで新政府樹立(新国家の建設)に専心していた様子をよく示すもの(もちろん龍馬は殺されるなどとは思っていなかったが)である。
追白の部分に『永井玄蕃頭』の前が出てくるが、幕府内では開明派であり大政奉還を推進していたこの永井尚志に「明日」面会する話は、慶応三年十一月十一日の林謙三宛龍馬書簡に「今朝、永井玄蕃方へ参り、いろいろと議論いたしました」という文面に符合するものである。また中根と永井は旧知の間であるので、それを知っていた龍馬が中根を永井の屋敷に訪ねる際に同行を求めたのであろう。
龍馬の新出書簡として歴史的価値がきわめて高いものといえる。この書簡に関しては今後も研究の進展が期待される。