記憶にも推しがあるようです。
スイスのジュネーブ大学(UNIGE)で行われた研究によって、ポジティブな気持ちと結びついた記憶は睡眠中の脳内で優先的に繰り返し再生され、その結果として記憶がより強化されることが明らかになりました。
研究ではゲームで勝利したときに得られた報酬に関する脳の活動パターンが、深い眠り(ノンレム睡眠)の間により頻繁に再現されることを脳の画像解析から発見しました。
人は「嬉しい記憶」を眠っている間に無意識に何度も反芻(はんすう)し、その記憶を定着させている可能性があるということです。
寝る前のポジティブな感情が眠っている間の脳にまで影響を与えるとすれば、私たちは眠りの前にどんな感情を持つべきなのでしょうか?
研究内容の詳細は『Nature Communications』にて発表されました。
目次
- 脳はどの記憶を「お気に入り」にするのか?
- 勝ったゲームの記憶だけが脳でリピートされる
- 「気持ちよく眠る」が学習効率アップの秘訣に
脳はどの記憶を「お気に入り」にするのか?

テスト勉強や楽器の練習をした後、一晩ぐっすり眠ると、不思議と次の日にはうまくできるようになった経験はありませんか?
これは気のせいではなく、睡眠が記憶を定着(脳に記憶をしっかり残すこと)させるという脳科学(脳の働きを研究する学問)的に証明された事実です。
実際、脳は眠っている間にその日に体験した出来事や覚えたことを再生し、記憶を整理して定着させていると考えられています。
例えばピアノの練習でも、実は演奏中ではなく、休憩中や睡眠中に脳内で練習内容が20倍もの速さで再生され、それが記憶や技術の定着につながるということが最近の研究で分かっています。
しかし、ここで疑問が浮かびます。
私たちは毎日たくさんの出来事を経験しますが、眠っている間に脳は一体どの記憶を優先的に選び出しているのでしょうか?
楽しかったことやうれしかったこと、あるいは嫌だったことなど、私たちが体験する出来事にはいろいろな感情が伴います。
研究者たちは、感情が強く動いた記憶や、「ごほうび」(報酬)が伴った記憶が、特に優先されて睡眠中に再生されるのではないかと考えてきました。
例えば、何かうまくいって喜びを感じた経験のほうが、睡眠中に脳が繰り返し再生しやすいのではないかということです。
ところが、実際にこれを科学的に証明することは、技術的にも方法的にも非常に難しい課題でした。
そこで今回、ジュネーブ大学の研究チームは、「脳は眠っている間にどんな記憶を優先的に選び出して再生するのか?」という未解決の疑問に正面から挑みました。
特に「楽しくて満足感を得られる経験」、つまりポジティブな感情を伴う出来事のほうが、脳内で優先的に再生されているのかを確かめることにしたのです。
では、実際に脳はどんな記憶を選んでいるのでしょうか?
勝ったゲームの記憶だけが脳でリピートされる

では、実際に脳はどんな記憶を選んでいるのでしょうか。
答えを得るため研究者たちはまず、被験者に2種類のシンプルなゲームをしてもらいました。
ひとつは、「顔当てゲーム」というもので、出されるヒントを参考にして18人の顔写真の中から正解の1人を探し出します。
もうひとつは、3D空間の迷路を矢印のヒントを頼りにして脱出する「迷路ゲーム」です。
ただ、この実験にはちょっとした工夫がありました。
実は、どの参加者も「必ず片方のゲームにだけ勝つ」ように設定されていたのです。
つまり、一方のゲームでは必ず「勝利」というポジティブで満足感のある体験をし、もう一方のゲームではどうしてもクリアできず、少し不満な気持ちで終わる仕掛けになっていました。
ゲームを終えた参加者はその後、実験室で眠りにつきました。
その間、研究者たちは脳波(EEG:脳の電気活動を記録する技術)とMRI(脳の活動を画像で可視化する装置)を同時に測定し、睡眠中の脳がどのような活動をしているかを観察しました。
すると非常に興味深いことが明らかになりました。

被験者が入眠して間もなく、脳内に日中プレイしたゲームと同じ活動パターンが現れることが確認されました。
さらに、その記憶の再生中には、脳内の記憶を担当する「海馬」と、喜びや満足感を感じる「腹側被蓋野(VTA)」という部分が同時に活発に動いていることが分かりました。
つまり脳は、心地よい経験や達成感のある記憶を睡眠中に繰り返し選んで再生し、より強力な長期記憶にしようとする傍ら報酬信号として出て脳に「もっと再生せよ」と促していたのです。
実験の2日後、研究者たちは参加者に再びゲームの内容をどのくらい覚えているかの記憶テストを行いました。
その結果は明快で、睡眠中に繰り返し再生されていた「勝ったゲームの記憶」のほうが、はっきりと強く記憶されていました。
この結果は、睡眠中の脳がポジティブで気持ちの良い経験を特別に選び出し、その記憶を集中して強化していることを裏付けるものでした。
「気持ちよく眠る」が学習効率アップの秘訣に

今回の研究によって、「脳は睡眠中に気持ちの良い経験を特別に選んで繰り返し再生し、その記憶を強化している」可能性が示されました。
脳は私たちが眠っている間にもこっそりと、その日にあった「楽しかったこと」や「達成感のあったこと」を選び、まるでお気に入りのテレビ番組を何度も見返すように再生していたのです。
研究チームは、この仕組みを「報酬(ごほうび)のタグ付け」と表現しています。
さらに興味深いのは、記憶の形成に重要な役割を果たす脳内の「海馬」と、快感を感じる「腹側被蓋野(VTA)」が、睡眠中に互いに協力し合っていたという点です。
つまり、ポジティブな記憶はただ漠然と再生されるだけではなく、「嬉しい」「楽しい」といった感情とともに脳に深く刻まれている可能性があるのです。
こうした仕組みを活かせば、私たちの学習方法や仕事の効率化に役立つ新たなアイデアが生まれるかもしれません。
例えば、苦手なことを無理に詰め込んで嫌な気持ちのまま眠りにつくよりも、まず得意な科目や簡単なタスクを行って達成感や満足感を得てから眠る方が、効率よく記憶が定着することが期待できます。
昔から「好きこそものの上手なれ」と言いますが、これは単に気持ちの問題ではなく、脳科学によっても裏付けられる現象だったというわけです。
また、今回の研究は、現代社会の睡眠問題についても新しいヒントを与えています。
最近は睡眠不足が社会的な問題となっていますが、重要なのは単に睡眠時間を増やすことだけではないかもしれません。
眠る前の心の状態を意識して、「気持ちよく眠る」ことが、より質の高い睡眠と、翌日の学習や仕事のパフォーマンス向上につながる可能性があるのです。
さらなる研究が進めば、この成果は学校や職場での教育・訓練方法の改善や、ストレス社会における心の健康(メンタルヘルス)ケアにも役立つ画期的な知見になるかもしれません。
元論文
Reward biases spontaneous neural reactivation during sleep
https://doi.org/10.1038/s41467-021-24357-5
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部