物理法則が「自然淘汰」によって生まれる――そんな一見奇抜なアイデアをご存じでしょうか。
量子力学の分野で提唱されている「量子ダーウィニズム」は、量子のあいまいな世界から私たちのはっきりとした古典的現実が生まれる仕組みを、ダーウィンの進化論になぞらえて説明する理論です。
極微の量子状態では粒子が同時に複数の可能性を持つにもかかわらず、私たちの目の前の世界は一つの安定した現実として存在しています。
また量子世界では物体の位置が定まらないにもかかわらず、現実世界では坂を転がり落ちるボールという現象を運動方程式という古典物理法則が見て取れます。
このギャップを埋める鍵として環境の役割に注目したのが量子ダーウィニズムです。
環境との相互作用で壊されずに残った安定な状態が自然に多数コピーされ広まることで、私たちが見る共通の客観的現実が生み出されるというのです。
しかもこの仕組みは理論上の枠組みにとどまらず、近年の実験によって確かめられつつあります。
今回はそんな量子ダーウィニズムの最前線に迫ります。
目次
- 量子ダーウィニズムとは何か?
- 環境が“選別”して世界を作る仕組み
- “環境=証人”という逆転発想が示す新しい現実観
- 観測者はもう脇役:環境が“現実メーカー”になる未来
量子ダーウィニズムとは何か?

量子ダーウィニズムとは、「量子の曖昧な状態の中から、環境にとって最も壊れにくい安定した状態だけが生き残り、私たちが見る確かな現実として現れる」というアイデアを表した言葉です。
もう少し簡単に言うと、「環境が量子の可能性をふるいにかけて、安定した現実を自然に選び出している」という仕組みです。
この考え方を最初に提唱したのは、アメリカ在住のポーランド人物理学者、ヴォイチェフ・ズーレック氏でした。量子の世界では、粒子は複数の状態を同時に取れる(重ね合わせ)という奇妙な性質があります。
しかし、私たちの見ている日常世界では、粒子が複数の場所に同時に存在するようなことはなく、いつも一つのはっきりした場所にいます。この奇妙なギャップはどのようにして埋まるのでしょうか?
ズーレック氏が指摘したのは、私たちが実際に観察しているのは、量子系そのものではなく、その量子系が環境とやり取りして残した情報の痕跡だということです。
私たちは量子系を直接見るのではなく、環境が持つ量子系の情報を間接的に覗き見ているのです。
ここで「ダーウィニズム(進化的自然選択)」になぞらえる意味が見えてきます。ダーウィンの進化論では、環境にうまく適応した生物が生き残り、繁栄します。
それと同じように、量子ダーウィニズムの世界では、環境とのやり取りに最も強く安定な量子状態だけが残り、広く情報をばらまいて「現実」として存在を示します。
反対に、環境に弱く壊れやすい量子状態はすぐに消えてしまい、観測可能な現実には現れません。
量子の文脈では「適者」とは環境によって壊されにくい安定な状態のことです。
この環境に対して強い「勝者」だけが情報を環境中にコピー(複製)し、多くの観測者がその存在を確認できるようになります。
一方「不適者」である不安定な重ね合わせ状態などは環境との相互作用で速やかに崩れてしまい、観測可能な現実には現れません。
つまり、私たちが普段目にする物理法則や安定した現実は、無数の可能な量子状態が競い合った結果、自然淘汰の原理で選ばれたものなのです。
この考え方は、なぜ私たちが経験する世界が特定の法則性を持つのか、その理由を自然な進化プロセスによって説明する新しい視点を提供しています(注意:量子ダーウィニズムは物理法則そのものが進化するというわけではありません)。
量子ダーウィニズムとは、環境との相互作用によって安定で壊れにくい状態が自然に多数コピーされて環境に分散することで、誰もが同じ客観的現実を認識できるようになるという仕組みを指すのです。
もう少しかみ砕いて言えば、環境とは、量子系からの情報を単に消してしまう「ゴミ箱」のような存在ではなく、実は情報を保存して周囲に広めてくれる「証人(Witness)」のような役割を担っているのです。
例えば、空気中を飛び交う無数の分子や光の粒(フォトン)は、量子系がどのような状態であったかという情報をこっそりと受け取り、それを環境のあちこちに分散して記録します。
(※これは観測の連鎖(デコヒーレンスの連鎖)のせいです:詳しくは次ページ)
まるで環境全体が、量子世界で起きている出来事を逐一メモしてコピーを大量に作り、それらを周囲に掲示して回る「広告板」のような役割をしていると言えます。
そのため、私たち一人ひとりは量子系そのものを直接見ることはできなくても、環境のあちこちに貼り出されたこれらの「情報のコピー」を確認することで、同じ内容を共有することになります。
こうして、誰が見ても同じ情報に基づいているために、「客観的な現実」が成立するというわけなのです。
環境が“選別”して世界を作る仕組み

量子ダーウィニズムを理解する上で大切な鍵となる現象は、「デコヒーレンス」と呼ばれています。
デコヒーレンスとは、量子の世界にある「曖昧さ」が、環境との相互作用によって失われる現象のことです。
私たちが日常で目にする物質は、いつも確かな場所に存在し、粒子が同時に二つの場所にあるような奇妙な振る舞いを見せません。
しかし量子の世界では、粒子は「ここにいる状態」と「あそこにいる状態」を同時に持つ「重ね合わせ状態」を取ることができます。
では、なぜこのような不思議な重ね合わせが私たちの目には見えないのでしょうか。
その理由こそがデコヒーレンス(重ね合わせの破壊)です。
粒子は常に空気中の分子や壁、光などの周囲環境と絶え間なく相互作用しています。
この環境との接触によって、粒子が持っていた「複数の状態を同時に取る」という性質は急速に失われてしまいます。
実際には、粒子の状態を示す情報が粒子自身だけでなく環境のさまざまな要素にも拡散し、「ここにいる」や「あそこにいる」という安定した状態だけが環境に大量に記録されるようになります。
仕組みをもう少し詳しく見ると、粒子が光子や空気の分子などと相互作用すると、その粒子の状態情報が環境側へも移ります。
環境の各要素もさらに別の環境と接触し、情報を連鎖的にコピーしていきます。
こうして最初に粒子が持っていた情報は環境から環境へと伝わり、広く分散してしまいます。
結果として量子世界にあった本来の重ね合わせ情報は、水滴が海に落ちて広がるように環境へ溶け込み、私たちには「消えてしまった」ように見えるのです。
ただし環境に溶け込んだ情報がすべて等しくコピーされるわけではありません。
実際には環境と安定に相互作用できる、いわば「壊れにくい状態」だけが大量にコピーされて広まります。
ズーレック氏はこの安定した状態を「ポインター状態(pointer state)」と名付けました。
ポインター状態は環境との相互作用でほとんど崩れないため、環境中に無数のコピーを作ることができます。
まさに環境が選び出した「生き残り」の状態と言えるでしょう。
一方、環境に弱く不安定な量子状態は相互作用によってすぐに破壊され、情報のコピーもほとんど残りません。
つまり環境が「ふるい」にかけることで、安定なポインター状態だけが大量に環境中へコピーされていくのです。
この情報コピーは非常に短い時間で劇的に進みます。
たとえばズーレック氏らが検討した「量子ブラウン運動モデル」では、一つの粒子の情報が環境内の無数の粒子に瞬時にコピーされる様子が計算されました。
その時間は驚くほど短く、空気中の微小な塵の粒が重ね合わせ状態になったとしても、およそ10⁻³¹秒(1秒の10の31乗分の1)で重ね合わせが破壊されると見積もられています。
それほどまでに環境との接触は強力で、量子世界の不思議な性質はすぐに封じ込められてしまうのです。
ズーレック氏はこうした過程を「環境によるスーパーセレクション(einselection)」と呼びました。
この概念は量子力学で長らく議論されてきた「測定問題」に新しい視点を与えます。
従来の解釈では、観測者が測定した瞬間に「波動関数が収縮し」、量子状態が一つに決まると考えられてきました。
しかし量子ダーウィニズムによれば、(人間による意識的な)特別な「測定の瞬間」を持ち出さなくても、環境との相互作用だけで安定な結果が自然に選ばれていることになります。
観測者は環境に刻まれた大量の情報コピーを「後から覗き見ている」に過ぎないのです。
この新しい視点によって、量子の世界と私たちの日常世界との間にあった深い謎に光が差しました。
つまり量子の曖昧な世界から古典的現実が生まれる仕組みは、「環境が安定な状態を選びコピーを作る」というプロセスによってごく自然に実現しているのです。
環境が「量子の曖昧さを取り除く隠れた観察者」として働いていると考えることで、私たちの目の前に広がる確かな現実の成立過程をより直感的に理解できるようになりました。
“環境=証人”という逆転発想が示す新しい現実観

量子ダーウィニズムは長らく理論の舞台で議論されてきましたが、ここ十数年の間に「本当にそうなっているのか」を確かめる動きが加速しました。
最初の手がかりは2010年前後に報告された開放量子ドットの研究です。
指先にも満たない半導体の小部屋を電子が飛び回るこの装置では、電子の波が「スカー」と呼ばれる傷跡のような濃淡模様を残すことがあります。
研究者たちは、この量子ドットの中にある電子のような小さな粒子が環境と接触すると、特定のパターンだけが安定して残り、それが繰り返し現れる可能性があることを理論的に予測しました。
このパターンは量子ダーウィニズムが言う「安定な情報が環境にコピーされる」というアイデアにとても似ていました。
ただし、これはあくまで理論上の予測であり、実際の実験で確実に確認されたわけではありません。
その後2018年から2019年にかけて、世界のさまざまな研究グループが量子ダーウィニズムをもっと直接的に調べるための実験を行いました。
例えば、あるチームは光の粒(光子)の世界を調べました。
レーザー光をバラバラの光子に分け、その光子どうしが量子情報を“言い広める”様子を調べました。
光子は宇宙で最も手軽なメッセンジャーで、わずかな相互作用でも情報を遠くまで運びます。
そこで研究者は、最初の光子が持っていた「状態のタネ」が後続の光子にどんどん写っていく様子を検出し、量子ダーウィニズム型の“情報の増殖”が光の世界でも起こりうることを示しました。
また別のチームは、ダイヤモンドという特殊な物質を使った実験を行いました。
ダイヤモンドの中には、ほんのわずかですが、特殊な構造があり、その中にある粒子の情報が周囲の環境にどのように伝わるかを調べました。
ここでも、粒子の情報が環境に広がり、「冗長に(同じ情報がいろんなところに重複して)コピーされる」ことが実際に確認されました。
環境が一度このように情報をコピーしてしまうと、観察者が元の粒子を直接調べなくても、環境を調べるだけで粒子がどのような状態だったかを知ることができます。
つまり、情報が環境に広がることで、誰もが同じ現実を見ていることになります。これはまさに、量子ダーウィニズムの考え方を実験で示した例です。
このような結果について、量子ダーウィニズムを提唱したズーレック氏も「ほぼ理論の通りの結果が出ている」と評価しました。
ただし研究者らは「現時点の実験はまだ簡略化された状況での検証に過ぎない」とも述べています。
それでも、多くの研究者はこれらの実験的成果に勇気づけられ、今後さらなる精密な検証が進むことを期待しています。
量子ダーウィニズムの予言する微妙な効果を捉えるためには、これからも実験技術の向上が欠かせませんが、その挑戦自体が量子の世界の理解を深めてくれる「良い訓練」だという声もあります。
観測者はもう脇役:環境が“現実メーカー”になる未来

量子ダーウィニズムという考え方は、単なる物理理論の枠を超えて、私たちの現実の捉え方に深く関わる哲学的なアイデアをもたらしています。
具体的にどういうことか、ゆっくり丁寧に見ていきましょう。
私たちは普段、物がある場所にはっきりと存在することや、出来事が確かな状態で起きることを当然と考えています。
ところが量子の世界では、ひとつの粒子が複数の場所に「同時に存在する」かのような不思議な状態を取ることがあります。
このような状態を「重ね合わせ」と呼びますが、普通の生活の中でこのような現象に出くわすことはありませんよね。
それはなぜでしょうか。
量子ダーウィニズムは、その疑問への一つの答えを示しています。
この理論では、量子の状態が観測されたときに「消えてしまった」と考えるのではなく、「私たちが観測できない場所に隠れてしまった」と捉えます。
つまり量子の多様な可能性は消え去ったわけではなく、環境に溶け込んで広がり、私たちには見えなくなっているだけだということです。
例えて言えば、コーヒーにミルクを注ぐと最初はくっきりとした白い渦巻きができますが、すぐに全体に広がって目に見えなくなります。
それと同じように、量子の状態も環境という広大な海の中に散りばめられ、元の姿を確認できなくなります。
この「量子の曖昧な情報が環境に散らばり、目に見えなくなる現象」を専門的には「デコヒーレンス」と呼びます。
ミルクがコーヒーに溶け込む様子をイメージすれば、この現象を身近に感じられるでしょう。
ここで面白いのは、私たちが普段経験している「現実」と呼ぶものが、このデコヒーレンスを通じて環境が自然に「選び出した結果」だという点です。
実は私たちは、量子の世界に存在するすべての可能性を見ているわけではありません。
その中から特定の安定した状態だけが環境との相互作用を通じて広く伝播し、目に見えるようになります。
つまり「現実」とは、環境が作り出した「量子情報の記録」だと言えるのです。
この発想は、熱力学で知られる物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンが提唱した「エントロピー」の概念にも通じます。
エントロピーとは「見える秩序の陰で見えなくなった微視的な無秩序の量」を表す指標ですが、量子ダーウィニズムの描く世界像もこれに似ています。
量子の多様な状態は環境に拡散し、私たちからは見えなくなっても、その痕跡はエントロピーとして環境内に残ります。
さらにもう一歩踏み込むと、私たちが当たり前と感じる「古典的な現象」も、環境との相互作用によって選び抜かれた量子状態だと考えられます。
生物進化では自然選択によって生物の形質が決まりますが、量子ダーウィニズムになぞらえるなら、私たちが日常で当たり前と思っている古典的な現象(物体がはっきりした位置を持つなど)は、量子の多様な可能性の中で環境との相互作用を生き延びた安定状態が表に現れた結果と考えることができます。
もし環境との相互作用で選ばれる量子状態が違っていたら、私たちが見る現実の様子や起こる現象も違っていた可能性があります。
この意味で、量子ダーウィニズムが示す現象の選択と冗長化は、生物進化における自然選択に通じる考え方だと言えるでしょう。
もっとも、量子ダーウィニズムは「なぜ特定の結果が選ばれるのか」という問いには答えますが、「その結果が具体的にどの値になるか」までは決めてくれません。
例えばシュレーディンガーの猫のパラドックスで言えば、環境が猫の生死という安定な事実を選び出し多くの観測者に共有させる仕組みは説明します。
しかし、その猫が最終的に生きているのか死んでいるのか、といった具体的結果は量子確率によってしか与えられず、量子ダーウィニズム自体はその確率の収束先を規定しません(自然選択では環境に適応した個体が生き残りますが、どの個体が環境に適応できるかは偶然によって左右される面があるのと似ています)。
この点で、量子ダーウィニズムはコペンハーゲン解釈や多世界解釈など既存の量子解釈と矛盾せず共存しうる「枠組み」と言えるでしょう。
実際、多世界解釈(エヴェレット解釈)の立場から見れば、環境に選ばれなかった他の可能性は「世界の別の枝」に存在し続けているとも解釈できますし、量子ダーウィニズムの描写は「なぜ我々は自分のいる世界で客観的な現実を認識できるのか」を説明する補助線にもなります。
量子ダーウィニズムの意義は、量子力学の不思議な振る舞いと古典的現実の間に、一つの連続的なストーリーを提供してくれることです。
「観測者」という特別な存在を持ち出さずとも、環境という当たり前にあるものの作用だけで、量子の曖昧さから古典の明快さへの橋渡しができるかもしれない――その可能性を示した点で、非常に魅力的な理論だと言えます。
まだ発展途中の部分もありますが、実験検証が進めばさらに理解が深まるでしょう。
量子の世界における「ダーウィン的進化」の視点は、私たちの現実観に新たな光を当てつつあります。
量子ダーウィニズムによって描かれるこの世界像は、「自然が自ら観察者となって現実を選び出す」という壮大なものです。
それは、私たち人間の存在を特別視することなく、宇宙そのものが自らの法則と現実を育んできたのだと示唆しているようにも思えます。
今後の研究が、この仮説をさらに洗練し、量子から宇宙まで一貫した世界の理解へとつながることを期待したいです。
参考文献
Environment as a Witness: Selective Proliferation of Information and Emergence of Objectivity in a Quantum Universe — https://arxiv.org/abs/quant-ph/0408125
A Simple Example of “Quantum Darwinism”: Redundant Information Storage in Many-Spin Environments — https://arxiv.org/abs/quant-ph/0408147
Quantum Darwinism — https://www.nature.com/articles/nphys1202
Quantum Darwinism in a Mixed Environment — https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.103.110402
Quantum Darwinism in an Everyday Environment: Huge Redundancy in Scattered Photons — https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.105.020404
Non-Markovianity Hinders Quantum Darwinism — https://www.nature.com/articles/srep19607
Revealing the Emergence of Classicality in Nitrogen-Vacancy Centers — https://arxiv.org/abs/1809.10456
Quantum Darwinism and the Spreading of Classical Information in Probabilistic Theories — https://arxiv.org/abs/2012.06559
Quantum Darwinism and the Emergence of Classicality — https://quantum-journal.org/papers/q-2022-01-31-636/
Testing Quantum Darwinism Dependence on Observers’ Resources — https://arxiv.org/abs/2306.14745
Classifying Two-Body Hamiltonians for Quantum Darwinism — https://arxiv.org/abs/2405.00805
Observation of Quantum Darwinism and the Origin of Classicality with Superconducting Circuits — https://arxiv.org/abs/2504.00781
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部