私たちの宇宙を支配する根本原理を一つにまとめる「万物の理論」は、物理学者たちの究極の夢です。
最近、その夢に一歩近づけるかもしれないと注目を集めているのが、高次元の幾何学的な「宝石」のような物体です。
その名はアンプリチューヘドロン。
複雑な数式を使わずとも、この図形を調べるだけで素粒子同士の相互作用が理解できるかもしれない――そんな革新的な可能性が議論されています。
アンプリチューヘドロンは一体何者で、なぜ「万物の理論」の鍵になると期待されているのでしょうか?
目次
- 数式はもういらない?『宝石型物理』が登場した理由
- 宇宙を支配する新理論、その名はアンプリチューヘドロン
- 万物の理論へ──アンプリチューヘドロンが描く未来図
数式はもういらない?『宝石型物理』が登場した理由

学校で習った算数や数学の問題が、とても難しくて解けないと感じたことはありませんか?
特に複雑な計算や難解な数式が次々に出てくると、頭が混乱してしまいますよね。
実は素粒子物理学という世界でも、似たようなことが起こっているのです。
物理学者たちは、素粒子同士が衝突したときにどんな粒子が飛び出すのかを計算したいのですが、そのためには膨大な数の複雑な数式を何万個、何百万個と処理しなければならないのです。
たとえば、素粒子がたった2個ぶつかって新たに4個の粒子が生まれる現象を説明するためには、数万から数百万という途方もない数の図(ファインマン・ダイアグラム)を一つひとつ描いて、それぞれの図から導かれる数式を全部計算しなければなりませんでした。
これはあまりにも膨大で複雑な作業なので、コンピュータですら簡単には解けないとされてきたほどです。
ところが過去数十年間、こうした大量で複雑な計算が、実は驚くほど簡単な一つの数式にまとめられることがあると次々に発見され、研究者たちは驚いていました。
例えば1980年代に、米国のフェルミ国立加速器研究所でパーク氏とテイラー氏という研究者が、従来なら何十億個もの項が必要な計算を、たった一つの簡潔な数式に圧縮することに成功したのです。
こうした発見を重ねるうちに、多くの物理学者たちは「本当は粒子の世界には、もっと美しくシンプルで、統一的な仕組みが隠れているのではないか?」という予感を持つようになりました。
そして2013年、その予感がはっきりした形となって現れました。
米国プリンストン高等研究所(IAS)のニマ・アルカニ=ハメド氏とカリフォルニア大学デービス校のヤロスラフ・トルンカ氏が、「アンプリチューヘドロン」というまったく新しい考え方を発表したのです。
アンプリチューヘドロンという名前は「振幅(Amplitude)」と「多面体(Polyhedron)」という言葉が合わさったもので、イメージとしては「高次元の宝石」のような美しい幾何学的な形をしています。
このアンプリチューヘドロンの最もすごいところは、その図形の「体積」が、粒子同士が衝突したときに何が起きるかを示す確率をそのまま表している、という点です。
これまでは、素粒子同士の衝突で何が起きるかを知るには大量の計算が必要でしたが、アンプリチューヘドロンを使えば、この高次元の美しい図形の「体積」を求めるだけで、その答えを一瞬で得ることができるのです。
つまり、複雑な数式や膨大な図を使わずに、ただ図形の体積を調べるだけで物理現象の結果がわかってしまうという、とてもシンプルで直感的なアイデアなのです。伝統的な方法が「本質的にはもっとシンプルな何かを不必要に複雑化していた」ことを示す結果であり、研究者たちを驚かせました。
こうしたヒントが積み重なり「もしかすると粒子の相互作用には、美しく統一的な数学的構造が隠れているのではないか」という予感が広がりました。
その究極の形として登場したのがアンプリチューヘドロンだったのです。
アンプリチューヘドロンを使った計算は専門家の間でも「従来はコンピュータでも難しかった計算が、場合によっては紙とペンで可能になるほど効率化される」と評価されています。
さらに最近では従来数万項にもなった数式が、アンプリチューヘドロンの体積を求めるたった一つの式で表現できることも報告されています。
まさに「シンプルさの中に秘められた深遠さ」が垣間見える瞬間です。
そして最近ではアンプリチューヘドロンが「万物の理論」の鍵になるとまで期待されるようになってきました。
宇宙を支配する新理論、その名はアンプリチューヘドロン

では、なぜこのアンプリチューヘドロンが「万物の理論」の鍵になるとまで期待されているのでしょうか。
その理由は、アンプリチューヘドロンが現代物理学の根本原理に対する大胆な再解釈を示唆しているからです。
現在の物理学には、大きく分けて二つの柱があります。
一つは素粒子などミクロな世界を記述する量子論(量子力学や量子場の理論)、もう一つは宇宙規模の重力を記述する一般相対性理論です。
残念ながら、この二つを一つの枠組みで統一的に説明する理論はまだ見つかっていません。
量子論では確率や不確定性が支配し、一方の一般相対論では時空の滑らかなゆがみとして重力を扱います。
このミクロとマクロのギャップを埋めるのが「万物の理論」の使命ですが、従来のアプローチでは両者を無理やり組み合わせようとして深刻な矛盾や「無限大」が噴出するという困難に直面してきました。
特にブラックホールのような極限状態では、量子効果と重力効果が同時に効いてくるため、現在の理論体系では破綻が起きてしまうのです。
アンプリチューヘドロンが注目されるのは、まさにこの問題へのアプローチが従来とは全く異なるからです。
アンプリチューヘドロンを使った理論では、空間と時間、それに因果関係の基本原理ですら「派生的なもの」とみなされる可能性があります。
通常、物理理論では「局所性(相互作用は時空上の一点で起こる)」「ユニタリティ(起こり得る全事象の確率の和は100%になる)」といった原理を当たり前の前提として組み込みます。
しかしアンプリチューヘドロンでは、そうした前提を初めから絶対のものとはせず、むしろこれらの原理を用いなくても計算が自然と正しく成立することが示されています。
空間や時間、そして粒子がそれらを移動するという通常の描像は、この宝石のような図形の中から結果として現れる「現象」に過ぎない可能性があるのです。
研究者たちによれば、アンプリチューヘドロンの枠組みでは局所性やユニタリティといった原理が絶対的ではなく、将来の理論構築においてより柔軟に扱える可能性が指摘されています。
この発想は革命的です。
なぜなら、量子論と重力理論を統合しようとすると必ず問題となっていたのが、まさに局所性やユニタリティといった前提だからです。
ブラックホールでは情報が消えるのか残るのか(ユニタリティの問題)、極小領域で重力はどこまで意味を持つのか(局所性の問題)など、これらの原理が絶対だと考える限り矛盾が生じてしまいます。
アンプリチューヘドロンは最初からそれらを固定せず、むしろそれ抜きで完結する理論を志向しています。
そのため、量子と重力を統一する糸口が見えるのではないかと期待されているのです。
実際、多くの研究者が「アンプリチューヘドロンのような幾何学的手法は、量子重力理論(量子論と重力の統合)を探求する新たな道を開く可能性がある」と指摘しています。
もっとも、現時点でアンプリチューヘドロン自体が重力を直接記述できているわけではありません。
アンプリチューヘドロンが初めに発見されたのは、「最大超対称を持つヤン・ミルズ理論」という理想化された理論においてでした。
この理論には重力は含まれておらず、現実の宇宙を記述する標準模型の粒子や実際の重力理論を直接扱えるかどうかについては、まだ検証と拡張が必要です。
しかし研究者たちは、重力を含めた形でこの手法を拡張できる可能性があると考えています。
重力を含む散乱過程も、アンプリチューヘドロンか、あるいはそれに近い幾何学的対象で記述できる可能性があります。
そのような対象はアンプリチューヘドロンに似ている一方で、より複雑で見つけるのが難しいかもしれないからです。
アンプリチューヘドロンの共同発見者であるトルンカ氏も、その将来性について期待を示しています。
同氏は「真に正しい万物の理論がどのようなものになるにせよ、アンプリチューヘドロンのような幾何学的手法が自然な記述方法として重要な役割を果たす可能性があります」と語っています。
散乱振幅の研究に携わるジェイコブ・バージェイリー氏も「究極的にはユニタリティや局所性といった従来の原理を根本から見直す必要があるかもしれません。アンプリチューヘドロン的アプローチは、量子重力理論を築くうえで有力な出発点になり得ます」と述べています。
つまり、アンプリチューヘドロンは万物の理論への道筋を示す「地図」のような役割を果たすかもしれないのです。
さらに興味深いのは、アンプリチューヘドロンが暗示する世界像の変化です。
研究者らは、空間と時間さえもこの幾何学的構造から派生する現象とみなすことで、宇宙の始まり(ビッグバン)や時間の流れといった根源的な謎に新たな光が当たる可能性を指摘しています。
ある研究者は「私たちが感じる時間の流れや変化というものが、実はアンプリチューヘドロンという構造の性質から生じる現象であり、この構造自体は時間を持たない存在なのかもしれません」と述べています。
もし本当に空間や時間が幻影に過ぎず、もっと根源的な幾何学的存在があるとすれば、それは物理学だけでなく哲学にも深く関わる問いかけとなるでしょう。
アンプリチューヘドロンの研究は、「私たちの現実とは何か?」という根本的な問題にまでつながっているのです。
万物の理論へ──アンプリチューヘドロンが描く未来図

アンプリチューヘドロンが提唱されてからまだ日が浅いにもかかわらず、このアイデアは理論物理学のコミュニティで急速に関心を集め、発展を続けています。
アルカニ=ハメド氏らは後に「loop amplituhedron」や「momentum amplituhedron」といったバリエーションを開発し、異なる性質の散乱振幅にも幾何学的手法を適用できるよう研究を進めています。
これは無限個の面を持つ特別な形であり、あらゆる散乱過程を一つにまとめ上げる可能性があると言われています。
その体積は考え得るすべての散乱過程の振幅を包含するとも言われ、まさに万物を一つにまとめ上げる数学的構造の夢を感じさせます。
一方で、解決すべき課題も残されています。
先に触れたように、アンプリチューヘドロンの手法が現実の宇宙の粒子(標準模型の粒子)にもそのまま適用できるのか、まだ検証が必要です。
現在までのところ、この手法は計算を単純化するために超対称性など理想化された条件を用いた理論で主に検証されています。
今後は超対称性がまだ見つかっていない現実の素粒子の世界へ適用範囲を広げ、予言が実験結果と整合するかを見極める研究が進められるでしょう。
それでもなお、多くの物理学者がアンプリチューヘドロンに強い関心を寄せています。
理論物理学の巨人、エドワード・ウィッテン氏は「この分野は非常に速いペースで発展しており、今後何が起こるのか、どんな教訓が得られるのか見通すのは難しい」と述べており、驚きと期待が混ざった反応を示しています。
従来の常識にとらわれない新しい発想であるがゆえに、将来どんなブレイクスルーが飛び出すのか予測できないというのです。
最近では、アンプリチューヘドロンの思想をさらに発展させ、「サーフェスオロジー(Surfaceology=面の学問)」と呼ばれる新手法が登場したとの報告もあります。
これはアンプリチューヘドロンが必要としていた特殊な対称性(超対称性)を仮定せずに、より現実的な粒子にも適用できる道を開く可能性があるとして注目されています。
このように、幾何学によって物理を再定式化する動きは次第に広がりを見せており、まさに「新しい物理学の言語」としての幾何学が台頭しつつあるのです。
最後に、アンプリチューヘドロンが私たちにもたらすインパクトについてまとめてみましょう。
これは単に計算を楽にするテクニックではなく、自然の見方そのものを塗り替える可能性を秘めています。
これまで別物と考えられてきた粒子の量子世界と宇宙の重力世界を、一つの幾何学的構造で説明できるかもしれないというビジョンは驚嘆すべきものです。
それが実現すれば、人類は初めて一つの原理で万物を説明できる理論に手を届かせることになります。
もちろん道のりは平坦ではありませんが、アンプリチューヘドロンという美しい図形が示す道筋の先に、長年探し求めてきた真理が待っているのかもしれません。
物理学界では今、この可能性に期待と慎重な楽観が入り混じった視線が注がれています。
果たしてこの幾何学的アプローチが「万物の理論」への扉を開く鍵となるのか──今後の研究から目が離せません。
元論文
The Amplituhedron
https://doi.org/10.1007/JHEP10%282014%29030
Positive Geometries and Canonical Forms
https://arxiv.org/abs/1703.04541
From Feynman Diagrams to the Amplituhedron: A Gentle Review
https://arxiv.org/abs/2410.11757
Amplituhedra, and Beyond
https://arxiv.org/abs/2007.04342
Amplitude for n-Gluon Scattering
https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.56.2459
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部