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幕末最強!薩摩藩士を支えた食材の秘密


薩摩藩はその軍事力と学術的優越によって明治維新で重要な役割を果たしました。その力の一部は、独特の食文化に由来すると言われています。薩摩藩士は様々な背景から豚肉を日常的に食していました。豊富なビタミンB1を含む豚肉は、体力回復や健康維持に貢献し、この栄養価の高い食文化が薩摩藩士のスタミナの源となった可能性があります。薩摩藩はまた、地理的に海外に目を向け、欧米列強の脅威に敏感でした。このような背景が、戦場でも豚肉を食べる習慣や、ブタを効率的に飼育するシステムの確立を生み出しました。また、戦場での料理として「豚骨」が薩摩藩士に好まれた歴史があります。こうした食文化が強力な軍事力の一部となり、明治維新の成功を支えたのかもしれません。

明治維新といえば切っても切れない薩摩藩は、軍事力の高さで抜きん出ていました。

理由として、薩摩藩には平時は農業に従事し、戦の時には武士として戦う郷士と呼ばれる下層武士の数がとても多く、他藩と比較すると武士の数が圧倒的に多かったことが挙げられます。また、有事の際、兵を集めやすい仕組みも作っていました。

薩摩藩士は学問をよくし、常に武芸を磨いていただけではなく、若者の意見も邪険にせず聞き入れてきたことも大きいといわれています。現代の企業と似ていますね。年配者が威張っていると組織は硬直していくものです。

一撃必殺の薩摩示現流は、相対するとその気迫はすさまじかったことでしょう。

また、薩摩藩は地理的に江戸・京都よりも海外に対する目が開け、欧米列強からの侵略に対する危機感が強かったということも見逃せません。

さらに、薩摩藩が他の藩と決定的に違っていたことがあります。

それは何と、薩摩藩ではブタを食用として飼育しており、薩摩藩士は日常的に豚肉を食べていたということなのです。

目次

  • 薩摩藩では武士が普通に豚肉を食べていた
  • 薩摩藩の豚は、いつどこから来たか

薩摩藩では武士が普通に豚肉を食べていた

鹿児島は豚肉が郷土料理にも使われています。豚肉はタンパク質やビタミンB群などの栄養価が高い食材で、疲労回復や健康維持に欠かせません。特に、ビタミンB1は糖質の代謝を助けるため、疲労回復にも効果的です。

また、ビタミンB12は睡眠のリズムを整える効果があるとされています。(日本大学生物資源科学部 食品加工実習所「豚肉の栄養と摂取量」より)

美味しいだけでなく疲労回復や健康維持にも役立つ豚肉
美味しいだけでなく疲労回復や健康維持にも役立つ豚肉 / Credit: Wikimedia Commons

糖質は主食になる米や麦、芋類に多く含まれる、エネルギーに変わる栄養素です。豚肉に多く含まれるビタミンB1が糖質の代謝を助けるということは、食べた主食を効率よくエネルギーに変えてくれるということですね。そして疲労回復にも役立つということなので、豚肉は優れたスタミナ源ということができるでしょう。

鹿児島では明治以前から青少年の修練場での行事などで「豚骨(とんこつ)」と呼ばれる郷土料理を男性が作ってきました。「豚骨」はぶつ切りにしたスペアリブを焼き、芋焼酎で炒りつけてから大根やコンニャクなどと一緒に柔らかく煮込み、味噌や砂糖で味付けした料理です。

鹿児島県の郷土料理「とんこつ」は男性が調理してきた
鹿児島県の郷土料理「とんこつ」は男性が調理してきた / Credit: 農林水産省

豚骨は薩摩藩士が狩場や戦場などで作った野外料理がはじまりです。なるほど、男手で作られる理由も納得です。豚骨は西郷隆盛も好物だったと言われています。

好物ということは、比較的よく食べていたということではないでしょうか。

豚肉に多く含まれるビタミンB1は水溶性なので、煮込んだ汁にもビタミンB1がたっぷり溶け込んでいたことでしょう。戦闘中のスタミナ食としてはぴったりですね。

戦場でも豚肉の料理を食べていた薩摩藩士。干し飯や味噌などが携行食だった藩もあったでしょう。そこにスタミナ食の豚肉を煮込んだ豚骨などを食べていた薩摩藩士が立ちはだかったら……。

想像したくないですね。勝てる気がしません。薩摩藩士には目の前に立ちはだかられたくないと思います。

ところで、江戸時代には参勤交代があり、藩ごとに江戸に藩邸というお屋敷を構えていました。力も信用もある藩は江戸城に近く良い位置に広い藩邸がありました。

1995~ 1997年、東京都港区にあった江戸時代の薩摩藩、島津家の芝上屋敷の発掘調査が行われた際に面白い結果が出ました。

ちなみにこのお屋敷跡は、都営地下鉄三田駅付近から日本電気本社ビル、ホテル ザ セレスティン東京芝、戸坂女子短期大学などを網羅する大変広いものでした。13代将軍徳川家定に輿入れするため江戸に入った天障院篤姫が江戸での暮らしを始めた場所でもあります。

これだけ広いと江戸にいながらにして薩摩だったのではないでしょうか。篤姫様は、江戸に来た実感はあまり湧かなかったかもしれませんね。

発掘調査では17世紀前期から19世紀に至るまでの遺構が400以上確認されました。この時、陶磁器を中心とした膨大な量の遺物が出土しています。

食材となったであろう生物は貝類、甲殻類、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が確認されていて、中でも哺乳類の出土が目立ちます。

哺乳類の中で一番多いのがイノシシ・ブタだったのです。これは出土した哺乳類の58%という数字でした。これは10%だったイヌをはるかに上回っていて、主要な哺乳類だったことが伺えます。

江戸の薩摩藩邸跡地から発掘された動物の骨。圧倒的にブタが多い
江戸の薩摩藩邸跡地から発掘された動物の骨。圧倒的にブタが多い / Credit:井上忠恕(2019)/ナゾロジー編

鹿児島では仏教的な理由と労役に使っていたため牛や馬は食べない習慣がありました。これは日本どこでも同じだったと思います。

反面、豚と鶏は昔から「歩く野菜」といわれていました。

一般的過ぎて「歩く野菜」とまで言われたブタ
一般的過ぎて「歩く野菜」とまで言われたブタ / Credit:ナゾロジー

歩く野菜……。

シカ肉を「紅葉」、イノシシ肉を「牡丹」などと隠語で呼んでいた都市部に比べると「歩く野菜」は少々乱暴ですが、それだけ日常的な食材だったと言えます。

薩摩藩士は自宅でブタを飼育し、祝い事や行事の際に屠畜して食用にしたのは、鶏肉と変わらない感覚だったようで、これには豚肉を食べる風習を持った琉球との関係や、薩摩藩が狩猟を奨励したことが挙げられます。

さらに京都や江戸から遠かったことが、他地域に比べて獣肉食へのタブー観念が薄かった大きな理由ではないかと考えられています

ちなみに、同様に発掘された仙台藩の上屋敷跡から出たイノシシ・ブタはわずか2%でした。逆にイヌは35%。イヌやネコはペットだったと考えられており、イノシシ・ブタはその餌だったのかもしれません。

江戸の仙台藩藩邸跡地から出土した動物の骨。ブタはとても少ない
江戸の仙台藩藩邸跡地から出土した動物の骨。ブタはとても少ない / Credit:井上忠恕
,日本SPF豚研究会53号(2018)/ナゾロジー編

ブタはイノシシを家畜化したもののため、出土した骨はブタとイノシシの区別は難しいと言われています。しかし、薩摩藩邸から出土した骨は1~ 2歳のものが多いことから、飼育されていた可能性が高いと判断されました。

つまりブタだった、と。

出土したイノシシもしくはブタの骨は、飼育されていたブタだった可能性が高い
出土したイノシシもしくはブタの骨は、飼育されていたブタだった可能性が高い / Credit: Wikimedia Commons

また、骨には解体した跡が残っていたことから、屋敷の敷地内で解体し、調理が行われていたと考えられています。

鹿児島市尚古集成館蔵に収蔵されている「御献立留」には、薩摩藩の行事や接待の際の献立が記されています。「猪」「鹿」「にく」といった獣肉名が見られるのですが、「にく」はブタ、もしくはカモシカを指すものとみられています。

「にく」としたのは薩摩藩以外の人へのそれなりの配慮なのか、それとも、それだけ日常的なものだったからなのでしょうか。いずれにしても、「歩く野菜」とされていなかったのは幸いでしたね。

「にく」とした理由が気になる。「ブタ」とは言いにくかったのだろうか…
「にく」とした理由が気になる。「ブタ」とは言いにくかったのだろうか… / Credit: ナゾロジー

薩摩藩では江戸藩邸で骨が出土したことから、地元薩摩と同様の獣肉が食べられていたとみられています。

江戸薩摩藩邸のブタは美味しかったらしく、江戸時代の思想家で経済学者でもあった佐藤信淵(さとう のぶひろ)の『経済要録』には「薩州侯ノ邸中二養フソノ白毛琢ハ殊二上品ナリ」と書かれています。

現在、鹿児島といえば黒豚のイメージですが、当時、白い毛の豚肉が上品な味だったという記録です。

徳川最後の将軍、15代徳川慶喜(一橋慶喜)はことのほか薩摩藩の豚肉が気に入ったようです。グルメ将軍と称され歴代将軍の中でも長生きだった徳川慶喜は、豚肉を届けてほしいという薩摩藩に宛てた書簡が残っているほど。

その豚肉への執着ぶりから、影で「豚一様」とあだ名されるほどだったといいます。

徳川15代将軍、徳川慶喜は将軍を退いてから46年、77歳まで生きた
徳川15代将軍、徳川慶喜は将軍を退いてから46年、77歳まで生きた / Credit: Wikimedia Commons/ナゾロジー編

薩摩藩の豚は、いつどこから来たか

薩摩藩はいつから豚を飼育して食べるようになったのでしょうか。

これにはふたつの説があります。

ひとつは、1609年に薩摩藩が3000人の大軍で奄美・琉球に侵攻して大勝した際、「豚を持ち帰った」とされている説。これを契機に島津領では広く豚の飼育が広まったというものです。

もうひとつは、明から来たという説です。

1644年、明が滅びました。しかし滅ぶ前から明国内は政治的に混乱しており、政府高官を始め、医者、学者、技術者などの中に琉球や薩摩へ亡命する者が続出。

大陸との貿易で栄えた坊津(ぼうのつちょう 現・南さつま市)などの港町を中心として、明から来た人が作った唐人町がありましたが、そうした唐人町での食生活から豚肉を食べる習慣が広まったのではないかという説です。

明人はブタの飼育も行っていたことでしょう。ブタを目にした薩摩藩士の中には、唐人町で食べてみた人もいたのではないでしょうか。そこから「おい、明国のブタは旨いぞ」ということになり、自分たちでも飼育して食べるようになったのでは、ということですね。

当時、明の豚は肉質が軟かくてジューシー、さらに肉の味が濃くて香りもよいなどの特徴がありました。後の時代にこのブタは英国産の小型のヨークシャー種育成に取り入れられました。これは17~18世紀に広東から導入された広東豚ではないかとみられています。

小型のヨークシャー種は現在でも優秀な品種として活躍している大きな白豚「大ヨークシャー種」の育成に大きく貢献しています。江戸時代に好評だった白い方の豚はこの広東豚ではなかったかと考えられます。

琉球から連れてきたブタを食べなれていた薩摩藩士が、明のブタも美味しいことを知り、こちらも飼育するようになったのかもしれません。

話が少しそれますが、江戸時代に飼育していた黒い豚は琉球からもたらされたものでしたが、現在、鹿児島で有名な黒豚は、英国が作出した純粋なバークシャー種です。黒い毛に白い部分が六ケ所あるブタです。このバークシャー種は広東の白黒まだらのブタとタイのブタを使って作出されました。中国産のブタ、恐るべし。

バークシャー種のブタ。白い部分が6ヵ所ある
バークシャー種のブタ。白い部分が6ヵ所ある / Credit: Wikimedia Commons

話を薩摩に戻します。薩摩藩邸の発掘調査では2種類の豚が見つかっています。小型のブタと、それよりも大型のブタです。

小型のブタは成獣でも100kg以下で、これは琉球からもたらされた「黒いブタ」の可能性が高いとされていますが、そうすると、成獣で100kgを超える黒より大きい方は、明からもたらされた「白いブタ」ということになります。

明の時代、広東のブタは軟らかく味が濃くてジューシーなため外国でも新品種の育成に貢献したことから、佐藤信淵が美味しいと書いていたのは黒より大きい「白いブタ」の方だったのでしょう。

薩摩藩の白いブタはとても美味しかったらしい
薩摩藩の白いブタはとても美味しかったらしい / Credit: Wikimedia Commons

どちらか片方に決めず、黒も白も両方飼育していた薩摩藩は、それぞれのブタ肉の違いを味わい分けていたのでしょうか。それとも、日常用とハレの日用だったのでしょうか。そのあたりはよくわかっていません。

明治維新といえば切っても切れない薩摩藩。薩摩藩と徳川家は篤姫様だけのつながりではなく、最後の将軍、15代徳川慶喜とは何と豚肉でもつながっていました。

薩摩示現流で恐れられ、軍事システムでも幕末最強という評判だった薩摩藩は江戸時代からブタを江戸の藩邸でも飼育し、普通に豚肉を食べていたのです。

ビタミンB1を多く含み、糖質の代謝や疲労回復に役立つ豚肉。日本に新しい時代をもたらすことに貢献した薩摩藩のパワーは、もしかしたら豚肉からきたのかもしれませんね。

皆さんも、「何だか最近パワー不足かも」と思ったら、食事に豚肉を取り入れてみてはいかがでしょうか。

パワー不足?と思ったらチャーシュー麺を食べるのもいいかも
パワー不足?と思ったらチャーシュー麺を食べるのもいいかも / Credit: Wikimedia Commons

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参考文献

講談社ホームページ 「日本人は何を食べてきたか」 第6回徳川慶喜
https://gendai.media/articles/-/31267

大政奉還後「食」においても自由を思い切り楽しんでいたであろう最後の将軍 本郷 明美
https://gendai.media/articles/-/31267
農林水産省 うちの郷土料理 鹿児島県 豚骨(とんこつ)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/tonkotsu_kagoshima.html

元論文

江戸時代における豚の飼育と薩摩藩 日本SPF豚研究会
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010925931

ライター

百田昌代: 女子美術大学芸術学部絵画科卒。日本画を専攻、伝統素材と現代素材の比較とミクストメディアの実践を行う。芸術以外の興味は科学的視点に基づいた食材・食品の考察、生物、地質、宇宙。日本食肉科学会、日本フードアナリスト協会、スパイスコーディネーター協会会員。

編集者

ナゾロジー 編集部

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