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美食都市の幕開け!江戸時代の外食産業について


江戸時代に東京の外食文化が発展した背景には、京や江戸での茶屋や料理屋の繁栄があった。17世紀後半には「二軒茶屋」が京で注目され、軽食と共に文化交流の場を提供した。江戸では、そばが庶民の間で人気となり、外食産業が徐々に発展。化政時代には多数の飲食店が立ち並び、高級料理屋「八百善」のような豪華な店が人気を集めたが、一時的なブームに過ぎず、食文化は次第に変化し、客は高級料理に対する興味を失った。しかし一部の高級料理店は現在も営業を続けている。

東京はミシュランガイドの星の数の世界一位を2024年時点で17年連続で記録しており、まさに世界を代表する美食都市です。

そんな東京ですが、江戸時代から外食産業が盛んであり、江戸の町人たちは料理店の食事に舌鼓を打っていました。

果たして江戸時代にどのような外食店があったのでしょうか?またどのようなものが食べられていたのでしょうか?

この記事では江戸時代の外食産業の軌跡と実情について取り上げていきます。

なおこの研究は、京都産業大学日本文化研究所紀要27巻 p. 350-400に詳細が書かれています。

目次

  • 上方で産声を上げた外食産業
  • 外食文化が花開いた化政時代

上方で産声を上げた外食産業

江戸時代後期の「風鈴蕎麦」の屋台、蕎麦は江戸の町人にとってファストフードだった
江戸時代後期の「風鈴蕎麦」の屋台、蕎麦は江戸の町人にとってファストフードだった / credit:wikipedia

日本に外食産業が根付きだしたのは、江戸時代です。

17世紀後半、京の街角には「二軒茶屋」と呼ばれる茶屋がひっそりと灯をともしていていました。

この茶屋は、八坂神社へ参詣する人々がふと一息つくための場であったのです。東の中村屋と西の藤屋、この二つが茶屋として名を馳せていたといいます。

豆腐を串に刺して焼き、味噌汁に浸して食べる「祇園豆腐」が名物で、その淡白で脆い味わいは他にはない風情であったと、黒川道祐の『雍州府志(ようしゅうふし)』には書かれているのです。

この「二軒茶屋」は単なる休憩所ではなく、軽食を供するという新たな形の茶屋であり、当時としては非常に斬新でした。

人々は豆腐を味わいながら、京の四季を謳った地唄を口ずさみ、日常の喧騒から一時解放されたことでしょう。

その頃、京都だけでなく、東山の円山付近の寺院でも料理屋が現れ始めていました。

特に、時宗の寺院が席貸しをしながら料理を提供するようになったことは、寺院の静謐な雰囲気の中での食事という一風変わった趣向であったのです

そして、双林寺や長楽寺といった寺院が、宴会用の宿としても利用されるようになり寺院そのものが料理を提供する役割を担うようになっていきました

こうした背景には、庶民の外食に対する関心の高まりがあったことでしょう。

このような動きは何も京だけで起こったわけではなく、江戸でも似たような動きがありました。ただし17世紀の江戸では、まだ本格的な料理屋というものは存在していなかったのです。

江戸時代初期には、幕府が飢餓対策として五穀の無駄遣いを禁止し、うどんやそば、饅頭といったものの商売が一時的に制限されてさえいました

食事といえば簡素なものが主流で、街中では煮売屋が煮物や簡単な料理を売り歩く形が一般的だったのです。

そのため京で見られるような「料理屋」と呼べるものはほとんでありませんでした。

しかし、江戸時代も中期に入ると、江戸においても食文化は次第に多様化していきました。

特に信州産のそばが江戸で評判を呼び、そば切りが庶民の間で人気を博したのです。

『本朝食鑑』によれば、信州や関東近郊では良質のそばが生産され、江戸の町では信州産のそばが広く使われるようになったといいます。

そば屋は18世紀に入ってようやく登場し、そばとともにうどんが江戸の食文化の一部として根付いていきました。

このように、江戸時代中期を境に、日本の食文化は少しずつ外食産業としての形を成し始めていきました。

都市の商人層を中心に、食事は日常の楽しみとして捉えられ、その需要に応える形で茶屋や料理屋が次第に発展していったのです。

外食文化が花開いた化政時代

歌川広重『江戸高名会亭尽』「山谷 八百善」、紆余曲折を経て現在も神奈川県横浜市にて営業している。
歌川広重『江戸高名会亭尽』「山谷 八百善」、紆余曲折を経て現在も神奈川県横浜市にて営業している。 / credit:wikipedia

このように江戸時代中期にかけては外食文化が花開いていたものの、松平定信が行った質素倹約を是とする寛政の改革により、その華やかさは一時的にしぼみました

しかし、定信が権力の座を降りると、食の世界は再び活気を取り戻します。

化政期(1804年 –1830年)に入ると、江戸の町には数えきれないほどの飲食店が立ち並び、五歩歩けば飲食店、十歩歩けば別の店に出くわすといった状況になりました

当時、単なる茶屋だけでなく、豪華な料理屋が次々と登場したのです

高級な魚介類や珍味が食卓を彩り、江戸市中の飲食業が乱立していったのは、この時代ならではの現象でした。

その中でも特に名を馳せたのが、料理屋「八百善」です。

もともとは庶民的な仕出し屋だったものの、この時期に高級料理屋として急成長を遂げました。

八百善を代表する逸話としては、ある客が八百善で極上の茶漬けを所望した際、半日も待たされた挙句、1両2分(現在の価値で大体20万円)という高額な代金を支払う羽目になったというものが知られています。

ちなみにこの高級茶漬けの値段が高騰した理由の一つは、当時、煎茶の銘柄や水質に対するこだわりが強かったからとされています。

また八百善では野菜の促成栽培を行っていた農家と提携することにより、春先に瓜や茄子といった夏野菜を提供することを可能にしていました

こうした季節外れの野菜を出すことは現在では珍しいことではないものの、当時はかなり珍しいことであり、それゆえ人気を博していたのです。

しかし、このような豪華さや高級化は一時的なもので、やがて化政期の終わりには食文化の変化が見られるようになります

かつての名高い料理屋であっても、客は次第に高級な料理に飽き、名声にこだわらなくなっていきました。

それでも一部の高級料理店は残り、その中には現在でも営業しているものもあります。

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参考文献

京都産業大学 学術リポジトリ (nii.ac.jp)
https://ksu.repo.nii.ac.jp/records/10773

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部

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