「紅茶に浸したマドレーヌの香りから、遠い昔の思い出がよみがえる」
これはフランスの文豪マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』に登場する描写です。
この表現をきっかけに、ある特定の匂いから無意識に過去の記憶が想起される現象を「プルースト効果」と呼ぶようになりました。
プルースト効果は何も特別なことではなく、誰もが経験していることです。
例えば、焼きたてのクッキーの香りから幼少期に母親とお菓子作りをした光景が蘇ったり、ある香水の匂いから初めて付き合った人を思い出すことがあるでしょう。
では、なぜ「匂い」は意図せずして「記憶」を甦らせるのでしょうか?
その脳科学的なメカニズムについて紐解いていきます。
目次
- 匂いはどうやって記憶を呼び覚ますのか?
- 「匂い」がうつ治療に役立つ可能性
匂いはどうやって記憶を呼び覚ますのか?
「匂い」と「記憶」は古くからその密接な関連性が指摘されており、これまでに多くの研究がなされてきました。
そのおかげで、匂いをきっかけに昔の思い出が想起される脳内メカニズムはかなり事細かく解明されています。
まず、私たちが感じる匂いは、原因となる分子が鼻の中にある嗅覚受容体と結びつくことで生じます。
すると嗅覚受容体は、その匂い信号を脳の先端部に位置する「嗅球」という場所に伝えます。
嗅球は受け取った匂い情報をもとに、それが何のどんな匂いであるかを分析し処理する領域です。
こうして匂い情報は嗅球によって処理された後、感情や記憶をコントロールする扁桃体および海馬を含む「大脳辺縁系」に送られます。
ここが重要なポイントです。
通常、私たちの五感のうち、視覚・聴覚・触覚・味覚の情報は脳の中央にある視床を通って、理性や知性を司る「大脳新皮質」に送られます。
そのため、これらの感覚情報は頭を使って理知的に処理されます。
ところが匂い情報だけは感情や記憶を司る脳領域へと直接的に送られるのです。
そのうちの扁桃体はアーモンドのような形をした場所で、楽しい・悲しい・嬉しいなどの感情的な出来事に関連づけられる記憶を形成し、貯蔵する役割を担います。
さらに海馬は”記憶の司令塔”と呼べる場所で、日常の出来事や学習したことを記憶としてファイリングする働きをします。
それゆえ、匂い情報が扁桃体や海馬を刺激することで、感情を伴った出来事の記憶が無意識的に呼び起こされやすくなるのです。
脳内イメージングを行った先行研究でも、嗅覚系と海馬のつながりは他の感覚系よりも遥かに強いことが証明されています(Progress in Neurobiology, 2021)。
匂いで思い出すのは「エピソード記憶」
また、匂いはすべてのタイプの記憶を呼び覚ますわけではありません。
匂い情報は感情を司る扁桃体を刺激するので、想起される記憶は自然と感情を伴った出来事の記憶、つまり「エピソード記憶(自伝的記憶)」となります。
いわゆる、個人的な思い出の記憶です。
一方で、感情の伴わない「作業記憶」や「意味記憶」は匂いによって想起されません。
作業記憶とは例えば、友人の電話番号を聞いて、その数字を覚えたままメモするときなどに使う一時的な記憶であり、意味記憶とは「地球は太陽のまわりを1年かけて公転する」というような知識に関する記憶です。
これらは感情とは関係ないので、匂いによって刺激されません。
ですから、香水の匂いで友人の電話番号を思い出したり、コーヒーの香りで急にニュートンの運動方程式が甦ることもないでしょう。
匂いによって想起されるのは常に、個々人の人生経験と深く結びついた出来事の記憶となるのです。
以上がプルースト効果が起こる脳内メカニズムとなりますが、これと別に最新の研究では、匂いによる記憶想起がうつ症状の治療にも役立つ可能性が示されています。
それを最後に見ておきましょう。
「匂い」がうつ治療に役立つ可能性
うつ病は一日中気分が落ち込む、何をしても楽しくない、疲れやすい、眠れないといった状態が続く深刻な病気です。
これまでの研究で、うつ病を患っている人はエピソード記憶(自伝的記憶)の想起が困難になっていることが知られています。
これはうつ病が認知機能や感情プロセスに影響を及ぼすことで、エピソード記憶の検索が阻害されているためです。
特に気分障害のせいでポジティブな記憶を想起しづらくなっており、それがネガティブな思考の悪循環を招いて、ますます気分を落ち込ませるといわれています。
そこで米ピッツバーグ大学(University of Pittsburgh)の医学研究チームは、匂いによってうつ病患者のエピソード記憶が想起されやすくなるかどうかを実験しました(JAMA Netw Open, 2024)。
うつ症状のある32名の成人男女(18歳〜55歳、女性26名、男性6名)に協力してもらい、匂い成分を封入したガラス瓶を提示します。
匂いには、オレンジ、挽きたてのコーヒー豆、靴磨き、ヴィックスヴェポラッブ(風邪を緩和する軟膏剤)といった生活に馴染みのある香りを計24種選びました。
またこれと並行して、24種類の単語を提示し、被験者は匂いと単語のそれぞれに関連する特定の記憶を思い出すように指示されています。
その結果、うつ症状を持つ被験者たちは、単語よりも匂いを手がかりにした場合の方が記憶を想起しやすいことが分かったのです。
被験者のうち、単語から記憶を想起できたのは52%だったのに対し、匂いから記憶を想起できたのは68%に上りました。
また匂いで想起された記憶の方が、被験者による描写が鮮明かつリアルであり、「彼らはその記憶を追体験しているようでした」と研究主任のキンバリー・ヤング(Kymberly Young)氏は話します。
加えて、特にポジティブな記憶を思い出すように指示したわけではないにもかかわらず、匂いを嗅いだ被験者はネガティブな出来事よりもポジティブな出来事を思い出す可能性が高くなっていたのです。
ヤング氏らはこの結果を受けて、馴染みのある匂いを嗅ぐことで、うつ病患者が特定の自伝的記憶を思い出すのを助け、認知機能や感情プロセスの改善が期待できると指摘。
さらにポジティブな自伝的記憶の想起は気分の向上や回復を促し、ネガティブな思考の連鎖を断ち切るのにも役立つと述べています。
このように匂いによる記憶想起は、うつ病を治療する新たな方法としても応用できるかもしれません。
参考文献
Why Do Smells Trigger Such Powerful Memories?
https://www.discovermagazine.com/mind/why-do-smells-trigger-such-powerful-memories
Are You Depressed? Scents Might Help, New Study Says
https://www.upmc.com/media/news/021324-are-you-depressed
Familiar scents unlock memories in people with depression. Could ‘smell therapy’help patients?
https://www.nbcnews.com/health/mental-health/familiar-scents-unlock-memories-people-depression-smell-therapy-help-p-rcna138458
元論文
Recall of Autobiographical Memories Following Odor vs Verbal Cues Among Adults With Major Depressive Disorder
https://jamanetwork.com/journals/jamanetworkopen/fullarticle/2814989
ライター
大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。
編集者
海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。