コロンビアのある一族は危険な突然変異のせいで、ほとんどが40代でアルツハイマー病になってしまいます。
一族に属するある男性の遺伝子にもこの危険な変異があり、彼の脳内ではβアミロイドの塊やタウタンパク質の塊が大量に蓄積され、重度の脳委縮まで起きていました。
しかしこの男性は67歳までアルツハイマー病を発症することはなかったのです。
なぜこの男性だけ兆候がありながらも40代で発症しなかったでしょうか?
そこでメキシコのアンティオキア大学(Universidad de Antioquia)は、この男性の遺伝子と脳の詳細な分析を行い、彼がアルツハイマー病になりやすい変異と同時に、アルツハイマー病になりにくい変異も起こしていることを発見したのです。
いったいどんな変異がどのようにして、アルツハイマー病を防いでいたのでしょうか?
今回はアルツハイマー病の耐性遺伝子を持つ2人の男女にフォーカスをあてて解説したいと思います。
研究内容の詳細は2023年5月15日に『Nature Medicine』にて公開されました。
目次
- 40代でアルツハイマー病になる人々からうまれた希望の変異
- アルツハイマー病の治療標的は脳全域でなくてもいい?
40代でアルツハイマー病になる人々からうまれた希望の変異
コロンビアのある一族の人々は、遺伝子の一部にパイサ変異と呼ばれる危険な突然変異を持っており、若い時期からアルツハイマー病にかかりやすくなっています。
パイサ変異を持つ典型的な人々は44歳でアルツハイマー病の兆候が表れ、49歳までに発症し、60代で認知症の合併症により死んでしまいます。
過去に行われた調査では、パイサ変異は17世紀のスペインによる南米侵略の時代に村の外部から持ち込まれたものであることが示されています。
ただそれ以降、パイサ変異は集団内部で拡散し、村人たちの脳に世代を超えて壊滅的な影響を与えてきました。
一方、医学の分野では、パイサ変異を抱えた人々は貴重な研究対象となっており、過去30年にわたりグループに属する6000人以上の継続的な遺伝子検査、脳スキャン、そして死後の脳解剖が行われてきました。
しかしある日、研究者たちは奇妙な発見をしました。
ある女性(仮名:ルイズ)はパイサ変異を持っているにもかかわらず70代になっても認知症を発症していませんでした。
そこで研究者たちはルイズの遺伝子を詳細に分析することにします。
するとルイズには「パイサ変異」の他に、もう1つの遺伝子(APOE)にアルツハイマー病を防ぐ「クライストチャーチ変異」として知られる、保護的な変異が起きていることが明らかになりました。
ルイズはパイサ変異によって40代でアルツハイマー病になるはずでしたが、クライストチャーチ変異を持つことで発症が他の村人より30年近く遅くなっていたのです。
またルイズに起きた変異が彼女の脳にどんな影響を与えたかを調べたところ、ルイズの脳ではβアミロイド塊が高レベルで蓄積されていた一方で、脳の全域でタウタンパク質塊のレベルが低くなっていました。
この結果はアルツハイマー病の抑制にはβアミロイドよりもタウタンパク質が重要である可能性を示していました。
研究結果は2019年に発表され、世界の医学に大きな衝撃を与えました。
一方、今回の研究では、ルイズと同じようにアルツハイマー病に耐性を持つ男性(仮称:ボブ)が発見されたことからはじまります。
ボブもルイズと同じようにアルツハイマーになりやすいパイサ変異に加えて、他にもう一つ、アルツハイマー病になりにくい保護的変異を持っており、67歳になっても認知症を発症していませんでした。
ただ興味深いことに、ボブに起きた保護的変異はルイズとは異なるものでした。
ルイズの場合はAPOE遺伝子に起きた「クライストチャーチ変異」が保護効果を発揮しましたが、ボブの場合はRELN遺伝子に起きた「リーリン-コロボス変異」が保護効果を発揮していました。
(※COLBOSの由来はコロンビアとボストンという2つの地名を合わせたものになります)
つまり2人のアルツハイマー耐性は、違う遺伝子に起きた違う変異によって獲得されていたのです。
しかしより興味深いのは、2つの変異が最終的に類似の結果に結びついたことにあります。
ボブに起きた変異はボブの脳で何をしていたのでしょうか?
アルツハイマー病の治療標的は脳全域でなくてもいい?
ボブに起きた変異は何を起こしたのか?
謎を解明すべく研究者たちはボブの脳を調べました。
するとボブの脳では全域にわたって、アルツハイマー病の原因と言われるβアミロイド塊とタウタンパク質塊の両方が蓄積されていましたが、ただ「嗅内皮質(上の図の参照)」と呼ばれる脳の小さな領域においてのみ、タウタンパク質塊が低レベルに抑えられていることが明らかになりました。
ルイズに起きた変異は脳全域でタウタンパク質塊を減少させることでアルツハイマー病を抑制していました。
しかしボブの場合、タウタンパク質塊の抑制が嗅内皮質だけでしか行われていなかったにもかかわらず、ルイズに匹敵する保護効果を得られていたのです。
この結果が意味することは明白でした。
アルツハイマー病の抑制にはタウタンパク質塊が生成されるのを防ぐことが重要ですが、防ぐ場所は脳全域である必要はなく、嗅内皮質だけでも十分である可能性が示されたのです。
嗅内皮質は記憶・物体認識・空間移動・時間認識にかかわる脳回路の重要な交差点であることが知られています。
(※変異した2つの遺伝子はどちらもタウが脳内で塊になるのに必要なシステムを停止させる効果がありました。ただルイズの変異はそれが脳全域で、ボブの変異は嗅内皮質だけで働きました)
これまで開発されたアルルハイマー病の薬は、脳のさまざまな部位でβアミロイドの塊が生成されるのを防ぐことを目的としていました。
ですが今回の研究成果により、ターゲットをβアミロイド塊からタウタンパク質塊に、薬が作用すべき範囲を脳全域から嗅内皮質のみに限定できます。
研究者たちは現在、マウスを用いた動物実験を進めており、既にボブの変異(RELN-COLBOS変異)がマウスの脳内でタウタンパク質塊の蓄積を防いでいることを確認しつつあります。
もしボブやアリスと同じように発症時期を20~30年後ろにずらす効果を発揮する薬を開発できれば、アルツハイマー病の発症年齢を平均寿命よりも後に引き延ばせるようになるかもしれません。
危険な変異を持つボブやルイズの場合はプラスとマイナスが打ち消し合ってしまいましたが、普通の人ならば発症の平均を90歳以降に遅らせることが期待できるからです。
そうなれば実質的に、一生アルツハイマー病にかからないのと同じになるでしょう。
参考文献
Newly Identified Genetic Variant Protects Against Alzheimer’s https://hms.harvard.edu/news/newly-identified-genetic-variant-protects-against-alzheimers元論文
Resilience to autosomal dominant Alzheimer’s disease in a Reelin-COLBOS heterozygous man https://www.nature.com/articles/s41591-023-02318-3