新たな日産SUVの国内市場登場への期待を込めて、そしてエールを送る意味で、マニアックな四駆専門誌編集長が、今なお人気が高く、かつて愛車としていた「日産・初代サファリ愛」(?)を語ります。まず初回は、初代サファリ登場までの年譜を振り返ってみましょう。
●前口上
2020年末から取り組んでいた『キュリアス』誌Vol.16が校了して一息ついていたところ、モーターファン.web編集部から「海外で日産の新型アルマーダが発表されて好評を博しているので、ここらで初代サファリを語ってみませんか?」というお誘いの連絡が…。
三代目パトロール、日本名サファリ……私が一番好きな四輪駆動車ではないか!! 一も二もなくお引き受けし、初期型の黄色いハードトップと過ごした日々を思い起こしながら、まずは日産サファリの概要からお話しすることにしましょう。
四駆道楽専門誌『キュリアス』編集室 赤木靖之
語り尽くされた話ながら、まえがき代わりに触れておきたい。サファリの源流を遡れば1951年、政府による「警察予備隊(*1)向けの小型四輪駆動車を試作せよ」との要請で完成したパトロール4W60に行き着く。
競合相手は、ランドクルーザーの始祖であるトヨタ ジープBJと、本家ウイリスジープCJ3A。パトロールは特にジープに対して凌駕する面も見せたというが、出来レースのような結果は案の定ジープに。ジープには進駐軍(*2) の部品や整備ノウハウを流用できる強みもあった。
そこで以前より輸入代理店を通じてジープの国産化計画を進めていた三菱が、ノックダウン方式で生産を開始。1953年にCJ3A-J1として林野庁に54台、同J2として米軍貸与の形で保安隊(*3)に500台納入され、すぐに補正予算が成立し、北海道農業開拓向けを含め900台以上の追加納入があった。まさに四駆=ジープの勢いである。
ここまではサイドバルブエンジンでボンネットの低い「ローフード」スタイルで、日産やトヨタに比べると随分と小ぶりな体躯に映る。
やがて完全国産化を果たすとエンジンのFヘッド(*4)化で「ハイフード」となったCJ3B-J3を中心に量産が始まり、国防向けの制式採用もJ4、J54A、J24Aと続いた。
この時点で日産やトヨタによる競合車の市販も始まっており、ライセンス契約の縛りも加わって進化を封印されてしまったジープと、時代の要請に合わせて姿形を変えるパトロールvsランクルの図式はできあがった。以後、50年の流れを見ると、国のコンペに敗れた2社は災い転じて……と思えるが、さらに10年を経ると狭義の四輪駆動車としての足跡はプッツリ途切れたようにも見える。少なくとも、日本国内においては。
●編注
*1:現在の自衛隊の前身である最初の組織。1950年に「警察予備隊令」に基づいて設置され、1952年に保安隊に発展的解消。
*2:第二次大戦後、敗れた日本に進駐してきた連合国軍の俗称で、とりわけ米軍の事を指す。
*3:現在の陸上自衛隊の前身組織。1952年に警察予備隊から改組・改称した。
*4:OHIV――頭上吸気弁式――のこと。サイドバルブエンジンはシリンダー+燃焼室の形状が、横から見ると逆L字型をしているが、その上にインレットバルブ分の逆L字型がさらに重なってF字型に見えるためこう呼ぶ。
警察や消防、建設や医療などに販路を求めたパトロールは、1956年に改良の第一歩として出力向上と若干の飾りを施した4W61に移行。1958年にはシンクロメッシュが備わりワゴン型も加わった4W65、翌年にはサイドバルブからOHV化した4W66と続いた。これらのエンジンはグラハム・ペイジ社(*5)製の流れを汲む、重たく頑丈なものだった。
片やトヨタBJは「ランドクルーザー」と命名され、1955年に車体を一新したBJ/FJ20系に切り替わり、バリエーションも増やしていった。当初からOHVエンジンだったのはシボレーの流れを汲むからだ。
ついに1960年、両者は輸出で名を馳せることになるパトロール60系とランクルFJ40系へのフルモデルチェンジを迎える。ともに米国製ジープやランドローバーを圧倒するタフさで世界の辺境を駆け、日本の国土拓き、そして守った。四駆マニアのみならずクルマ好きなら誰もが知る名車である。
●編注
*5:戦前、日産が自動車を生産するにあたって製品図面や生産設備を購入したアメリカの中堅自動車メーカーで1962年に消滅。特にシリンダーブロック加工用トランスファーマシンは日産によって長く使われ続け、RB系の6気筒エンジンまでのボアピッチはこれによって決定されているという。
レジャーユースの盛んな北米市場で成功したトヨタは、国内でも個人への販売に注力した。1974年、ダイハツB型ディーゼルエンジンによる小型貨物登録車BJ40系の発売で、大排気量ガソリン一本槍のパトロールを引き離したのだ。
翻って早々に北米から撤退したパトロールは、より過酷な用途の豪州や途上国で好評を博した。おこぼれに与る程度の国内販売は、消防ポンプ車や電源車など強力なPTO動力を要する特装用が大半だった。
昭和50年代に入る頃には短尺車や軽積載仕様車、ワゴン型車の販売を打ち切り、重積載の単一ラインナップとして個人客を切り捨てた。
本質的な部分で何が違っていたかは稿を改めるとして、状況を挽回すべく1979年に登場した新型パトロールが160系だった。
その属性は、のちに市場を席巻した三菱パジェロに代表されるピックアップ派生型RVとは異なっている。似たようなクルマに見えたとしても、想定された使用環境は従来型の延長線上にあって、ヘビーデューティ四駆の最右翼だ。「カッコウだけのRV」ならぬ「カッコウだけ “が” RV」なのである。
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先代、二代目パトロールは、個人ユーザーにとっての非現実性で他を圧倒していた。そこへ一足飛びのフルモデルチェンジである。日本での発売は少し遅れて1980年6月のことだった。
国内向けで「サファリ(=狩猟行)」と名を変えたのは、マイカーとして乗るなら「パトロール(=警ら)」では何とも塩梅が良くなかったからだろう。
そうなると対する「ランドクルーザー(=陸の巡洋艦)」は何とも語感も良く、映画に例えるなら戦争モノや政治モノの大群像劇から、ダンディな海の男、加山雄三や石原裕次郎のスターものまでを網羅するかのような命名の妙を感じてしまう。
さて、石原裕次郎といえばド派手な劇中改造車である“『西部警察』サファリ”が、ミニカーやプラモデルになるほど世間的には有名だが、個人的には『北の国から』に登場する“中畑木材の社用車”の方が好きだった。スッピンの佇まいこそ160系の魅力であり、舞台背景に馴染んでいたからだ。
ボディ刷新と並び、ディーゼル化こそ「売れる要素」だった。6気筒3.3ℓのSD33型エンジンは、3tトラックC80系や、3/4t四輪駆動車のキャリヤ4W73系で実績がある。さらに遡ればセドリック等の4気筒に行き着く、日産ディーゼルによる小型エンジンの礎となったシリーズである。
ホイールベースは2種類が設定された。車検証上の型式は長尺車(販売名「バン」、のちに「エクストラバン」)K-VRG160と、短尺車(販売名「ハードトップ」)K-VR160、ハードトップには標準ルーフとハイルーフがある。
型式の頭につく排ガス記号「K-」はさておき、「V」はバン、「R」がSD33型、「G」は長尺を示す。よってフレーム本体にはR160/RG160とだけ打刻される。登録時に「1文字足りない!」と慌ててはいけない。
銘板表記はチトややこしい。バンがVRG160とそのままなのに対し、オープンを基本とするハードトップはKR160、そのハイルーフ仕様はJR160とされ、海外ではこの型式で通っている。たとえばネット検索でKR160と打ち込むと世界中で活躍する様子にヒットし、ランクルに及ばなかった国内販売が不思議に思えてくる。
ガソリンのFG160も作られたが、一般向けのカタログに載らないキャブシャーシだった。
初代サファリは大雑把に「前期と後期」あるいは「丸目と角目」と分けて語られるが、モデル中途の改良もあるため、本稿では4期に分けて紹介する。まずは「第1期」モデルを1980年7月発行の本カタログでご覧いただこう。
簡素なDXと上級のADというグレードが設定されたのも、初めてのことだった。ADにはパワステとフリーハブが備わり、タコメーターが備わるべき位置に大きな時計がはめ込まれる。ハンドルやシフトノブの材質・意匠も異なり、バンパーはメッキ。しかし座席やフロアトリムはDXと同じビニール製だった。それでも十分にRVとして使える「四輪駆動車」と思われた。
寸法 全長4070mm×全幅1690mm×全高1845mm
ホイールベース 2350mm
トレッド 前/後 1405mm/1405mm
車両重量 1670kg
エンジン SD33型 直列6気筒OHVディーゼル
総排気量 3246cc
最高出力 95ps/3600rpm
最大トルク 22.0kg-m/1800rpm
トランスミッション 4速MT 2速副変速機付き
サスペンション 前後ともリジッドアクスル・リーフスプリング
ブレーキ前 ベンチレーテッドディスク
ブレーキ後 デュオサーボ
タイヤサイズ 6.50-16(前6PR/後8PR)