PHOTO:瀬谷正弘(SEYA Masahiro)/NASA
第一次大戦で航空機が初めて兵器として利用され、大規模な集団空中戦が行なわれるようになると、自らの速度に加え、降下時に獲得できる運動エネルギーが利用できることから、敵より少しでも高い高度に上がることが空中戦の必定とされた。利用できる運動エネルギーが多いほど敵より優速かつ戦闘機動の選択肢が増え、それはすなわち空中戦の先手を取り、勝つチャンスが増えることを意味する。しかし高空に行くに従い空気は薄くなり、エンジン出力は減少する。そこで過給の必要性が生じた。
第一次大戦中から各国でさかんに研究されたが、それが結実するのは戦後であり、本格的実用化は第二次大戦からと言っていいだろう。第二次大戦での過給機の大勢はスーパーチャージャーで、ターボの圧縮機と同様の構造を持つ遠心式が主流。大戦後期には2段圧縮や3速式まで登場する。日本では愛知時計機械が熱田21型としてライセンス生産したドイツのDB601などは図のような流体継手式無段変速の凝ったシステム(=フルカン継手)を持っていた。ちなみに側面への過給機配置は、ドイツ軍部が機関銃/砲をプロペラ軸を通して発射する方式(モーターカノン)に固執し要請したため。これは標準的な後方配置に比べ過給機の一定以上の大型化を難しくし(系列のDB605には2段2速式のL型があるが)、後述の各種噴射装置による過給が試みられることになる。
排気タービン(ターボチャージャー)の考え方は古くからあり、すでに1800年代から産業用機械や船舶など排気ガス温度が低く負荷変動の小さなエンジンでは使用されていたが、航空機エンジンに積極採用したのは第二次大戦のアメリカ。航空機エンジン用排気ターボの実現にはインコネルのような高温特性に優れた材料が不可欠だが、基材のニッケルがそもそもレアメタルで戦略物資。その冶金技術とあわせ、事実上、戦時中に大量生産可能な資材と工業力を保持していたのはアメリカだけと言って良い状態であった。
B-17やB-29といった迎撃の難しい高高度を飛ぶ大型爆撃機への装備は無論、それらを護衛したり直接長距離侵攻を目的とした戦闘機にも排気タービンが装備された。しかし多発機ならまだしも、掲載したP-47戦闘機の側面視から理解できるように、単座機への装備は1000°Cに達する高温の排気がパイロットの至近を通らぬよう配慮する必要性、できるだけ排気やタービンで圧縮された空気の温度を低下させたいことから長大となったダクトと中間冷却機(インタークーラー)なども内蔵させる必要性から非常に大きな機体となった。それでも過熱問題に悩まされたという。側面視ではわからないが実際には排気および空気ダクトはコクピットをはさんで2本づつある。
点火時期の早期化、高圧縮比設定はエンジン高出力化の常套手段だが、これはノッキング(異常燃焼)の危険性をはらむ。筒内温度が上昇してノッキングを起こせばエンジンパワーはダウン、それどころか焼き付きを起こす。第二次大戦当時のレシプロ戦闘機は100オクタン程度の燃料を使用していたが、やはり空気の薄い高空を飛行するとなれば、筒内温度の上昇によるノッキングの脅威からは逃れられない。そこで亜酸化窒素(ナイトラス・オキサイド/N2O)ガスや水+エタノール混合液などを吸気管に噴射して吸入空気温度を引き下げ、空気密度を増し、筒内温度を引き下げることで耐ノック性を高める試みが各国で研究された。
中でも有名なのは、ドイツのメッサーシュミットBf109戦闘機後期型の一部に採用されたGM-1(亜酸化窒素ガス噴射)とMW-50(水+メタノール噴射)。MW-50は主に定格高度以下の最高出力の増大に用いられたため「緊急増速装置」として認識されている。これらは当然、燃費増大が甚しいため、使用は最高出力時の短時間に制限された。これらの装置は現在、ドラッグレースカーの出力アップ手段としてポピュラーであり、一部のWRCマシンに装備されたり、2輪ではホンダがレース用NSR500で水噴射を実験したこともある。これらもまた、その使用結果において「過給機」のひとつとみなしても良いだろう。