アメリカでは1970年代後半から女性の就業率が急増し、80年代後半から90年代にかけては企業においても女性の活用が推進されていた。
この時期にアメリカ企業が女性の活用を推し進めた背景には、戦争と移民の増加による男性(特に白人若年層)就業人口の減少に加え女性の高学歴化があると言われ、実際、同時期のアメリカ企業における管理職の実に35%以上が、すでに女性になっていたというデータがある。
女性の社会進出が拡大するにつれ、当然ながらクルマで通勤する女性の数も増えた。また、男女間の賃金格差も急速に狭まりつつあったため、若い独身女性でも気軽にローンを組んで新車を購入するようになった。自動車メーカーとしても、こういった女性層を有力な市場として意識せざるを得なくなっていく。
かくして比較的安価で小型の、2シーターもしくは2+2のクーペやスペシャルティカーがこの市場に向けて投入され、「セクレタリーカー(秘書さんのクルマ)」などと呼ばれることになる。無論、「セクレタリー」は「秘書」そのものを指していたわけではなく、社会進出著しい「高学歴勤労女性」全般をイメージした比喩で、「秘書室にいそうな高学歴勤労女性」ということだ。今となっては偏見に満ちた、あまりよろしくない表現だが…。
翻って当時の日本は、1985年のプラザ合意に端を発する、実態経済と思い切り乖離した株価や地価の急激な上昇が生んだ「バブル景気」の真っただ中。巷には仕事があふれ、相対的に賃金が上昇。アルバイトの時給も高額化し、大学生でも働けば働くほど稼ぐことができた。ちょっと頑張れば1年も経たずにアッサリと国産新車が買えた。それどころか、当時流行していた「中の上クラス」の平均的なサラリーマン家庭の子弟なら、親のボーナス1回分の分け前でポンと新車が買い与えられたということも珍しくなかったし、大学生がアルバイト先からボーナスがわりに新車をもらったという狂った話さえあった(筆者は世代も社会階層も違ったので、残念ながらついに一度もそんな恩恵にあずかることは無かったが……)。
こういった背景から若い男性のなかに「女性の歓心を金や社会的地位(に裏付けられた金)で買う」ことを是とするような言説があらわれ、これが堂々とまかり通るようになっていく。また、マスコミがこれを煽ったのも事実だ。かくして、いつの間にやら「女性には大金を注ぎ込むもの」という“常識”が作られ、日本では、奇妙な形で女性の地位向上がはかられていく。
この当時、女性をクルマで送り迎えするだけのお抱え運転手的立場の男性を、いささかの侮蔑をもって女性たちが「アッシー(“足”が由来)」と呼んだことに象徴されているが、デート相手の選択権は常に女性側にあり、男性は自分が選ばれるために女性に気に入られるクルマを用意する必要に迫られた。
こういった状況からあらわれたのが「デートカー」だ。これは明確なカテゴリーとして存在したわけではないが、主に(助手席の)乗り心地がよく、女友達に見せても嫌味がなくてハッタリがきくW201型メルセデス・ベンツ190EやE30型BMW3シリーズのような外国車が上等とされ、国産車では31型日産シーマやZ20型トヨタ・ソアラなどの比較的大型車が好まれた。
しかし2.0ℓクラス以下の国産スペシャルティカーも健闘を見せており、ホンダの2代目 (AB/BA1型)および3代目(BA4/5/7型)プレリュードや日産の4代目(S12型)および5代目(S13型)シルビアが代表とされる。
女性の地位向上の経緯は大きく異なるものの、「セクレタリーカー」にしても「デートカー」にしても「若い女性の視点がクルマ選びの基準」という根本的な一点では同じであり、そこを意識してクルマを造れば、少なくともこの時期はそこそこ乗り切れる商品になるはずだった。だが、実際は違っていた。
たしかに「比較的安価で小型でスポーティなスタイル」というのはスペシャルティカーの要件であり、「セクレタリーカー」や「デートカー」にも共通する。だが、日本ではスペシャルティカーには「スポーツカーの代用品」として役割の方が強く期待されていた。それを期待していたのは1980年代に入ると一段とその存在が顕著になった、峠道や高速道路で運転技量や区間速度を競い合う「走り屋」という、現在で言う「モテ/非モテ」の構造とは無縁のユーザー層であり、スタイリングのみならず、機能面でも本当にスポーティであることが重要とされたのだ。つまり日本国内のスペシャルティカー市場においては、依然として男性視点の方が優位だったのである。
いささか枕が長くなったが、同じ時期に同じスペシャルティカーという車種が必要とされていても、じつはその背景が日米ではまったく異なっていたのだ。私見に過ぎないが、この市場の要請の違いこそが、クラスを問わず、この時期の国産スペシャルティカーの混乱や迷走の源だったのではないか。1990年、日本のバブル期の真っただ中に登場した日産のNXクーペもまた、そんな一台に思えてならない。
有り体に言えば日産NXクーペは7代目、B13型サニーのクーペである。一部では「サニーNXクーペ」と表記されることもあるが、あくまで正式には「ニッサンNXクーペ」という独立したクルマである。「決してサニーではない」と言わざるを得ない事情がこのクルマにはあった。
遡る1986年、北米でサニーより一段下位のサイズのパルサーをベースとした「ニッサン・パルサーNX」という2ドアクーペがデビューした。これは日本では「EXA(エクサ)」の名で売られたクルマのことである。日産の北米現地法人であるNDI(ニッサン・デザイン・インターナショナル。現NDA=ニッサン・デザイン・アメリカ)によってデザインされ、北米地域では大ヒットを記録した。
1979年に開設されたNDIにとっては、本車はニッサン・ハードボディ・ピックアップやパスファインダーと並んで、初めてコンセプトから量産デザインまで通して担当した記念すべき一台に位置付けている。また、日本でも姉妹車のパルサー、ラングレー、リベルタビラと並んで1986年の第7回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞している…のだが、日本では売れなかった。
さて、北米市場ではこの当時、日本で言うシルビアを基本型式のアルファベットから「SX」、フェアレディZを「ZX」と呼んでいた。この両車種の相対的な価格上昇により、より安価で小型のパーソナルクーペが求められ、パルサーのクーペが企画されて「NX」とされることになる。これらはそれぞれエンジン排気量等級を示す数字とあわせ、北米では「100NX」、「200SX」、「300ZX」と通称されていた。
もうおわかりだろう。当時の日本の日産開発陣は否定していたが、北米市場では「NXクーペ」は「パルサーNX(日本名・エクサ)」を継ぐ「2代目の100NX」として認識されているクルマなのである。北米市場のユーザーにとっては、パルサーよりも大きなサニーをベースにすることで、より高性能と快適性を求めてモデルチェンジしたと解釈されているわけだ。
本来ならばサニーがベースなので"法則”から言えば「BXクーペ」とでも呼ぶべきだが、それは北米における販売戦略の手前、意味のないことである。販売に有利に利用できるものは何でも利用した方がいい。だから本車は国内市場では「サニー・クーペ」ではなく、あくまで「NXクーペ」という名の単独車種として存在せざるを得なかったのである。たとえ本車の型式が「N」ではなくても、だ。だが、北米市場ではわかりやすくても、日本市場ではデザインから何から、あまりにすべてが唐突過ぎた。
発表当時、本車に対しては開発陣の声も評論家の論評も、かなりあやふやな言葉が並ぶ。そのなかでも唯一、弊社刊行誌で、デザイン・ジャーナリストの千葉匠氏がこんなことを語っている。
「このジャンルのクーペは、いくらスタイリッシュにしても、それだけで商品としてアピールするものになるかどうか。むずかしいところだと思う。日本ではどんな人が買うのか、イメージがつかめないんですね」
まさにその通りだった。現在の目で当時の千葉氏のインタビュー記事を読むと、氏はかなりの部分まで(恐らくNDIのデザイナーを通して)本車の開発経緯をつかんでいたことがわかる。また、巷間言われるように本車はZ32型フェアレディZのデザインに影響されていたわけではないことが、この時、日産のデザイナーの口から語られている。Z32型は日本のデザインであり、NXクーペのデザインが影響を受けるのは「時期的に不可能」だと。
NXクーペもエクサも決して悪いクルマではなかった。むしろコンパクト・スペシャルティカーとしては、スペシャルティカーの本道に則った良くできたクルマだ。だが、このクルマも結果から言えば、北米市場をはじめ海外市場では成功をおさめたが、日本市場では惨敗を喫する。それは仕向地のニーズがあまりに違い過ぎたという点が大きい。
依然としてスペシャルティカーに「スポーツカーの代用品」を求める男性視点優位の日本市場のユーサーは、おそらくは北米市場の女性ユーザー向けのNXクーペではなく、「走り」志向の後継車を求めていたのだろうから。そして「女性視点」が重要だったのは確かだが、この時期、日本の女性たちは北米市場とは違い、まだ自らハンドルを握るわけではなく、「お抱え運転手」に運転させていたのだから。
結局、日本でのNXクーペは、価格の面からも、同時期の上位クラスのクルマであり、女性視点を取り入れつつも「走り」志向をも両立させて大ヒットとなったS13型シルビアや180SXの陰に埋没してしまった。
もし仮に、この時にNXクーペとは別に、日本市場専売車種としてゴリゴリの「走り屋」志向のクーペを発売していたとしたらどうだったろうか? いずれにせよ、この後、NXクーペはさらにルキノというこれまた「一世一台」のクルマとなり、ルキノ・ハッチとファミリー化することでサニーとパルサーの境界さえもが曖昧となり、サニー、パルサーもろとも消滅して行ったのである。
全長×全幅×全高(mm):4140×1680×1310
ホイールベース(mm):2430
トレッド(mm)(前/後):1445/1425
車両重量(kg):940
乗車定員:4名
エンジン型式:GA15DS
エンジン種類・弁機構:水冷直列4気筒DOHC
総排気量(cc):1497
ボア×ストローク(mm):73.6×88.0
圧縮比:9.5
燃料供給装置:ECC
最高出力(ps/rpm):94/6000
最大トルク(kgm/rpm):12.8/3600
トランスミッション:5速MT
燃料タンク容量(ℓ):50
10.15モード燃費(km/ℓ):16.6
サスペンション方式:(前)ストラット/(後)パラレルリンク・ストラット
ブレーキ:(前)ディスク/(後)ドラム
タイヤ(前/後とも):155/SR13
価格(税別・東京地区):133.9万円