REPORT:ニューモデル速報編集部
「ホンダ・ビート」の開発は、まさに未知への挑戦だった。
本田技研の中にあるコンセプトチーム(R部門)は10年先を見据えてアイデアを出しており、ビートは“遊び”のためのクルマとしてまとめられていたのが始まりだった。それを当時の社長が見て、「ひとつぐらい失敗しても構わないから」と後押し、またアメリカでの生産は本調子の上、国内販売も順調という景気が良かったことも開発スタートの要因となった。
すでにNSXの開発でミッドシップに対するノウハウは得られていたが、軽自動車の枠組みの中での開発は相当苦労したという。当時の軽自動車の平均乗車率が1.3人だったことから2人乗りのオープンカーとして設計が進んだが、外観だけでなく、本格的なサスペンションの味付けや剛性の高いブレーキなど、軽自動車のチープな雰囲気を排除していこうとすると様々な問題が生じたという。
なかでも苦労したのがエアレーションだった。エンジンとラジエーターが離れているため、長いパイプで冷却水を引く際に、パイプの曲がり具合によって冷却水に気泡が発生してしまい、冷却効率が悪化。オーバーヒートを引き起こしてしまうのだ。しかし、飯塚は、かつて空冷から水冷への転向の際に培った冷却システムの研究や、同じくエンジンとラジエーターが離れている軽貨物車の経験をもとにしたアドバイスで解決した。
また、重量の増加も課題だった。フロントのダッシュボードだけでなく、キャビンとエンジンルームを遮るバルクヘッドは騒音と熱の遮蔽のためにしっかりとさせなければならない。オープンカーのため、ボディ剛性の不足を補う補強材も必要。そうこうしていると今度はスペースが足りなくなる。燃料タンクやスペアタイヤの置き場など、普通のクルマでは苦労しないようなポイントが大問題となったそうだ。
ちなみに、トランクの容量が少ないのは、エンジンのサイレンサーが8.6リッターと大きかったから。自然吸気で64psのパワーを稼ぐという目標のためには排気抵抗を抑える必要があり、サイレンサーをケチることができなかったからだという。
このサイズのフルオープンのミッドシップという未知の存在ゆえに市場調査もやりようがなかったが、それならクルマを出してから市場を創造すれば良いという想いがトップから開発陣まで共通した考えがあったからこそ「ビート」は誕生した。