このTTという名の由来を、みなさんご存知だろうか?
「有名なマン島TTレースに何かゆかりがあるのでは……」
そんな、うっすらとした思いを多くの人が抱いているかも知れない。
ではなぜ四輪スポーツカーに二輪レースの名前が与えられたのだろうか?
TEXT●小泉建治(KOIZUMI Kenji)
アウディTTがなぜ「TT」を名乗っているのか? 知っているようで知らない人は多いだろう。TTが「ツーリスト・トロフィー」の略であることは、当初からアナウンスされていた。ということは、おそらくかの有名なマン島TTレースに由来しているのだろう。筆者はなんとなくそう解釈していたし、おそらくほとんどの方がそうであろう。
もちろんマン島TTは二輪のレースである。そこで筆者は、「実は昔はマン島TTレースにも四輪クラスがあったのではないか」とか、「有名なのは二輪レースだけれど、マン島では二輪とは別の時期に四輪レースもやっていて、そちらもTTレースと呼ばれているのではないか」などと勝手に想像していた。マンクスラリーの別名かな、とか……。
そうではない。実はアウディは昔、“二輪で”マン島TTレースを制していたのだった!
「アウディが制していた」というのは、ちょっと煽り気味に過ぎる表現だったかもしれない。
正しく言うと、アウディの前身であるアウトウニオンを形成していたメーカーのひとつであるDKW(デーカーヴェー)が、マン島TTレースを制していたのだ。
アウディがもともと「アウトウニオン」なるメーカーを前身としているのは有名な話だ。ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、そしてDKWの4つのメーカーが合併し、1932年に設立された。
当時、世界最大の二輪メーカーだったDKWは、2ストローク水冷2気筒エンジンを搭載したSS250というマシンでマン島TTレースに参戦し、1938年の「ライトウェイトTTクラス」でエヴァルト・クルーゲのライディングによって見事に優勝を飾っていたのだった。
このDKW SS250なるモデルについて、もう少し詳しく説明しよう。
エンジンは2ストロークの並列2気筒250ccで、当時としては珍しく水冷だった。最高出力22hpを4800rpmで発生し、4速リターン式トランスミッションを備えていた。ちなみに当時よく見られたようにペダル配置は左右が現代と逆で、右側がシフトチェンジペダル、左側がリヤブレーキである。
フレームはスチール製チューブラータイプで、車重は110kgに過ぎず、加速はさぞかし強烈だったに違いない。最高速度は150km/hだったとされている。
優勝した1938年のマン島TTレースでクルーゲが記録した平均速度は126.3km/hだったという。
後にアウトウニオンに吸収されるNSU(エヌエスウー)もかつては二輪メーカーであり、マン島TTレースに由来を持つ「NSU Quickly TT」というモデルを1960年代に販売していた。
こちらは50ccの空冷単気筒エンジンで、最高出力はわずかに1.7hp、最高速度は40km/hに過ぎない。このモデルでマン島TTレースに参戦したというわけではなく、あくまで「イメージした」というものだ。
だがNSUもマン島TTレースでは数々の実績を残しており、とくに1954年には「ライトウェイトTTクラス」で1位から4位を独占しており、「TT」の名に深いゆかりを持つメーカーのひとつと言っていいだろう。
このように、現在のアウディを形成する前身ブランドのふたつ、DKWとNSUがそれぞれマン島TTレースで勝利を収め、それぞれ「TT」の名を冠したモデルを販売していた。
つまりアウディTTの「TT」は、そんな栄光の歴史を物語る意義深いネーミングだったのだ。20年の歴史を刻んできたアウディTTだが、見方によってはもっともっと長い歴史を背景に持っているのである。