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〈田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ〉
最初は、百人一首の四番で、田子の浦(現在の静岡市清水区蒲原の吹上の浜を中心とした一帯)に出てみると、まっ白い富士の高嶺では雪が降り続けているよ、という内容です。駿河湾の海岸から北方に目を向け、富士山の頂上付近を遠望して詠んでいます。「新古今集」冬が出典ですが、その元は「万葉集」巻三にあります。そこでは、まず「山部宿祢赤人が富士の山を望む歌一首あはせて短歌」として、
〈天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を……〉
と始まる長歌の後ろに「反歌」と呼ばれる短歌が添えられており、それが「百人一首」の歌ですが、少し違う箇所があります。
〈田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける〉
初句末の古代の助詞「ゆ」や、五句末の「ける」などより一番の大きな違いは、「白妙の」が「ま白にそ」とある部分です。「ま白にそ」は平安和歌ではほとんど用いられない語なので避けられたのでしょうか。「白妙の」は「百人一首」で2首前にある二番の持統天皇の歌、
〈春すぎて夏きにけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山〉
にも見られます。双方を合わせて見ると、夏の薫風で天の香具山に翻る白い衣と、冬の日射しに輝く富士山の白い雪、という対照になっているようにも見えます。
持統天皇の歌の持つ爽やかさに赤人歌も合うようで、長歌の内容に直結する霊峰としての富士山の賛美こそが主内容と思えます。少なくとも雪による冬の厳しさという側面がまったくない点が注目されます。
〈かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける〉
冬の2首目は六番の歌で、天の川に鵲(かささぎ)が翼を連ねて渡した橋に置いた霜の白さを見ると、冬の夜が更けたことよ、という内容。出典は「新古今集」冬ですが、「万葉集」にはなく、平安時代後期に編まれた「家持集」にあって万葉歌人の大伴家持の実作ではないとされています。
鵲はカラスに似た鳥で、中国の古い伝説に、天の川を埋めて橋になって織女を渡らせたとあります(「准南子」佚文)。雲ひとつなく大気の澄み通った冬の夜空に浮かぶ天の川が、白く冷たい光を放って見えたことから、七夕についての古い伝説を連想して転用したと思われます。
現実の情景として宮中の御殿に入る階段の情景を描写したとする説もありますが、現在はそうした解釈には否定的な意見が一般的です。
同じように鵲の伝説を霜降る寒夜の状況で詠んだ和歌は、平安時代から他にいくつも見いだせます。
〈かささぎの羽に霜降り寒き夜を ひとりや我が寝ん君待ちかねて(古今六帖・ひとりね)〉
〈夜や寒き衣や薄きかささぎの 行き会ひの橋に霜や置くらん(同・かささぎ)〉
上の歌は、鵲の羽に霜が降るほど寒い夜に私は一人で寝るのか、恋人の訪れを待ちかねてというもの。下の歌は、夜が寒いのか衣が薄いのか、鵲が作った恋人が行き会う橋に霜が置いているだろうかというもの。どちらも冬の寒夜に恋人と温まることのない寂しさを詠んだものです。
藤原定家の和歌にもあります。
〈天河夜わたる月もこほるらん 霜に霜置くかささぎのはし(拾遺愚草員外・四季月)〉
天の川を夜渡ってゆく月までも凍るだろうか、霜の上に霜が重なる鵲の橋では、というものです。
初秋の七夕の時に限定せず、冬の霜が下りる寒い夜を強調し、恋人を待つ寂しい一人寝という状況で詠まれることが伝統的なようです。
「百人一首」の歌も冬の霜が下りるほどに寒い夜を詠んだということだけでなく、恋人の訪れない寂しい思いを読み取ることもできるでしょう。
〈山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば〉
冬の3首目は二八番の歌で、山里は冬が特に寂しさがまさるよ。人の訪れも途絶え、草木も枯れてしまうと思うと、という内容で、出典は「古今集」冬です。山里が寂しいとは他の季節、例えば秋でも、
〈住む人もなき山里の秋の夜は 月の光も寂しかりけり(後拾遺集・秋上・藤原範永)〉
などと詠まれますが、二八番の歌は、まず冬の寂しさこそが秋を含めて他の季節と異なり格別だと主張して、その理由を説く下句に注意を向けさせます。謎解き型の構成ですが、そこで用いられた「かれ」の懸詞、「(人目も)離(か)れ」と「(草も)枯れ」が一首全体での表現上の注目点です。しかし、この懸詞は新たに工夫されたものではなく、似た例はいくつもあります。同じ「古今集」冬には、凡河内躬恒の歌で、
〈我が待たぬ年は来きぬれど 冬草のかれにし人は訪れもせず〉
があります。新年の到来に注目し、年齢が増す新年は望まないのにやって来て、冬の草が「枯れ」るように「離れ」た人は訪れないと詠んでいます。二八番は冬の山里の寂しさ、躬恒歌は新年の到来と、詠む状況は異なりますが、技巧は同じです。この懸詞は珍しいものではありませんが、その類型の代表として、冬の寂しさの強調には特に効果的とみなして二八番の一首が選ばれたのでしょうか。
なお作者の宗于は光孝天皇の孫ですが、伯父が宇多天皇となったことで、父・是忠親王以後皇統から外れた不遇意識が「大和物語」の中に描かれています。そうした悲哀感を二八の裏に想像することも出来そうです。
〈朝ぼらけ有明けの月と 見るまでに吉野の里に降れる白雪〉
冬の4首目は三一番の歌で、夜明けの明るさで、有明けの月かと見紛えるほどに吉野の里に降った白雪だよ、との内容。出典は二八番に同じ「古今集」冬です。詞書が「大和国にまかれりける時に雪の降りけるを見てよめる」とあって、作者は延喜八(908)年に大和国の役人(権少掾―ごんのしょうじょう。従七位上相当―)になって赴任したことが知られているので、その時の経験を詠んだものと思われます。同じ「古今集」冬で作者も同じ、
〈み吉野の山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり〉
は、是則の代表作ともされますが、同じ時期に詠まれた歌かもしれません。
「有明の月」は、満月を過ぎて欠け始めてから後の月で、夜が明けても沈まず空に残っている月のことです。ここでは朝の明るさが、事実は前夜から降っている雪のためであるところを、早朝にしては明るすぎるので有明の月のせいかと間違えたということです。
和歌の技法で言えば、雪の明るさを強調するための月光への見立てになります。すでに漢詩の技法としてあり、前例としては唐の李白の詩にある「牀前(しょうぜん)月光を看(み)る 疑うらくは是(これ)地上の霜かと」という句にある、月光の霜への見立てがしばしば引かれます。しかし、特に月と雪であれば、例えば平安後期成立の「新撰朗詠集」上巻には、冬の雪題の詩の中に、
〈庾公(ゆうこう) 月かと看て誤まて楼に登る〉
という部分があります。中国の東晋(AD317-420)の時代の庾公という人が、雪による明るさを月の光かと見誤って楼に上ったとの意味です。「古今集」時代の和歌が漢詩の影響下にあった例のひとつと言えましょう。
〈朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木〉
冬の5首目は六四番です。夜明けで明るくなる中、宇治川を覆っていた霧が徐々に切れ目ができ、少しずつ現れて見えてくる、瀬ごとに並び立てられた網代木よ、との内容。出典は「千載集」冬です。
霧は春の霞に対して秋の景物ですが、網代は冬の風物です。宇治川の霧は「源氏物語」などにも見え、「宇治十帖」冒頭の「橋姫」巻で男主人公の薫が馬で宇治を訪れ、姫君姉妹に会う場面にもあります。
〈川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ茂木の中を、わけ給ふ……〉
その一方、和歌では六四番が最も古く、物語など散文に出る語を初めて和歌に詠んだようです。
網代は網の代わりに竹や木を編んだ簀(す)に氷魚(ひお)と呼ばれる鮎の稚魚を追い込んで採る漁です。「網代木」は魚を簀に導くために川に立て並べた杭です。宇治の網代は当時すでに有名で、前出の「橋姫」で、姫君達の父である宇治の八の宮の住まい紹介に、
〈……宇治といふ所に、よしある山里、持給へりけるに渡り給ふ。……網代のけはひ近く、耳かしがましき河のわたりにて、………〉
と記されています。他に「蜻蛉日記」「更級日記」などにもありますが、和歌では「万葉集」から詠まれています。
〈もののふのやそうぢ川の網代木に いさよふ波のゆくへ知らずも(巻三・柿本人麻呂)〉
この歌は、「新古今集」雑中にもあります。「もののふ(武士)の八十氏」が「宇治川」の序詞で、一首は宇治川の波の果てなさが詠まれますが、末句は川の描写だけでない広い意味の無常を表すともされます。平安時代も、
〈数ならぬ身を宇治川の網代木に 多くの氷魚も過ぐしつるかな(拾遺集・恋三・読み人しらず)〉
のような歌があります。「宇治川」に「憂」を懸け、「氷魚」に「日を」を懸けて、人並でもない我が身を憂く思いつつ、宇治川の網代木に多く寄る氷魚ではないが、多くの日を過ごしてしまったよ、という内容で、恋の憂いに沈む日々の長さが強調されています。
六四番は、この「拾遺集」歌や、上で見た二八番や三一番のような和歌技巧はまったくなく、情景の描写に徹していることが特色です。しかも時の経過に従って霧が途切れて薄れ、徐々に視界が明らかになるという変化をも描いています。無音での縹渺感と奥行きのある絵画的な一首と言えます。
〈淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝ざめぬ須磨の関守〉
冬の6首目は七八番です。淡路島から行き来する千鳥の鳴く声に、幾夜も寝覚めたよ、須磨の関守は、という内容。出典は「金葉集」冬です。「関路千鳥」という題で詠まれました。題は須磨の関への道筋を飛ぶ千鳥ですが、
〈淡路島瀬戸の潮干の夕暮れに 須磨よりかよふ千鳥鳴くなり(山家集)〉
という淡路島側から詠んだ例もあって、千鳥は淡路島と須磨を行き来しています。
須磨は、摂津国の歌枕。「須磨の関」は摂津国と播磨国の国境で、現在の神戸市須磨区の海岸付近にあったようです。「万葉集」から和歌にも、「須磨の海士の塩焼き衣」と詠まれ、海浜での藻塩による製塩が題材になりました。最もよく知られるのは、在原業平の兄・行平が都での公務への支障から、須磨に留まった時に詠んだ、
〈わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつつ侘ぶとこたへよ」(古今集・雑下)〉
です。たまたま消息を聞く人がいたら須磨の浦で塩水を海藻に垂らすように、涙を流し侘しく暮らしていると答えてください、という内容です。この歌は「源氏物語」の「須磨」の巻の大きなモチーフにもなっています。そして、
〈おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩たれつつわび」ける家居、近きわたりなりけり。〉
のように、光源氏が都に身の置き所を失い須磨に退去を余儀なくされる物語展開の中で引用されます。また、「須磨」には千鳥も登場します。
〈…例の、まどろまれぬあか月の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
友千鳥もろごゑに鳴く暁は ひとり寝覚めの床も頼もし
まだ起きたる人もなければ、返々ひとりごちて臥し給へり。〉
源氏が、いつものように寝られず過ごした夜明け前の空で、千鳥が情趣深く鳴き、友千鳥が共になく明け方は一人眠れない床も寂しくないよ、と和歌を詠んで、別に起きた人もないので一人それを反芻する、という内容です。
この物語の内容と七八番が直結はしませんが、源氏が「須磨の関守」に同化しても不自然でない同質性、密着性が感じられて、七八番は「友千鳥」の和歌を本に作られたとも見なされています。
「百人一首」の中で、不規則に散在する6首に特に規則性を見出すことはできません。あえて言えば、百首全体が時代順の配列になっていることが、この6首を2首ずつセットで見ると顕著に見えるように思います。
まず最初の2首は万葉歌人とされ、1首目のスケールの大きい堂々とした和歌の風体、2首目の想像世界の強い現実感が古代的、あるいは万葉的と感じさせられます。
3・4首目の2首は、ともに「古今集」が出典で、懸詞と見立てという和歌技巧が一首の要になって効果が期待されています。
5・6首目は、そうした技巧が用いられず、一首全体が描く世界の情緒が重んじられていて、「源氏物語」を背景にすると思われることでも共通します。この2首の作者について、定頼の歌は「更級日記」の時代とほぼ重なり、兼昌の歌は50~60年ほど遅れますが、「源氏物語」の早い時点での享受を示していると言えます。同物語の文学史上の重要性を改めて再認識させられます。
《参照文献》
百人一首 島津忠夫(角川文庫 )
百人一首 全訳注 有吉保(講談社学術文庫)
百人一首 鈴木日出男(ちくま文庫)
百人一首を楽しく読む 井上宗雄(笠間書院)
こんなに面白かった「百人一首」 吉海直人(世界思想社)
百人一首(全) 谷 知子(角川ソフィア文庫)