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〈みちのくの しのぶ文字摺り 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに〉
和歌の内容は、「(あなた以外の)誰のために乱れ始めたのでしょう。私からではないのに……」となります。「みちのく」は東北地方、「しのぶ文字摺り」については諸説あり、忍草(しのぶぐさ)の葉や茎を摺りつけて乱れた模様に染めた布とされたり、「陸奥の信夫(みちのくのしのぶ 現福島市)」の特産品の布だとされたりします。
ここまでが和歌の技法としての序詞(じょことば)で、「乱れ染め」を思い浮かばせることから、恋の思いとしての「乱れ初めにし」を導いています。語法としては、「誰~そめにし」で文は切れ、「我ならなくに」は、別に補った形ですが、きちんとした文ではなく、気持ちのままに言葉が出た印象です。
あなたのせいで私の心は千々に乱れてしまいました、と自分の強い恋心を相手に訴えたものです。前半の序詞も意味内容よりは、和歌の流れを生むことが主で、全体が抑揚のある調べで恋する思いを表現しています。
出典は「古今和歌集」の恋四にある「題しらず」の歌ですが、「伊勢物語」の初段にも載っています。そこでは、成人したばかりの男が、旧都の奈良で美しい姉妹に出会い、狩衣(かりぎぬ)の裾を切って、
〈春日野の 若紫の すり衣 しのぶの乱れ かぎりしられず〉
という歌を送ります。「若紫」に美しい姉妹を喩え、彼女たちの着る摺衣の乱れ模様のように、私の忍んでいる心の乱れは果てがありません、といった内容です。
この歌に続けて源融の「みちのくの……」が並べられ、「といふ歌の心ばへなり」とあって、源融の歌が「春日野の……」の類歌とされています。摺り衣の乱れた模様を恋心の乱れの比喩とした点で、二首が共通するために掲げられたのでしょう。
「伊勢物語」以外でも、この融の和歌は、和歌作りの手引き書と言われる「古今和歌六帖」や、院政期に成立したいくつかの歌論書にも載せられていて、平安時代ではよく知られていた作品だと思われます。
源融は52代の嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、源氏の臣籍に下り、56代の清和天皇時代の貞観一四年(872)に51歳で左大臣となりました。この時同時に右大臣になったのが藤原基経です。基経は、次の陽成天皇の摂政・関白、そして太政大臣になり、後の光孝・宇多天皇時代までの政界の主導者となります。この時代は、藤原氏が政治の実権を皇族出身の源氏から奪っていく過程に当たり、源融も地位こそ左大臣でしたが、実質的には基経が政権運営の中心でした。
源融は、むしろ当時でも風雅の趣味ある人物として注目されています。以下は、「伊勢物語」八一段の記述です。まず、融の住まいについて、
〈賀茂川のほとりに、六条わたりに、家を面白く造りて住み給ひけり。〉
とあって、これが河原院と呼ばれる豪壮で贅を尽くした邸宅です。そこでは、集まった皇族・貴族が庭園の菊や紅葉の美しさを愛でて夜を通して宴を催し和歌を詠んだとされ、中でも在原業平らしき老人が、
〈塩釜に いつか来にけむ(いつ来たのだろう) 朝なぎに 釣する舟は ここに寄らなむ(寄ってほしい)〉
と詠みます。この河原院については、平安後期に編纂された漢文集の「本朝文粋」などにも記述があって、庭園に池を掘り、難波(大坂湾)から海水を運ばせて魚や鳥も遊ばせ、陸奥の歌枕で有名な塩釜の地を再現しており、それに因んで、業平の歌は「塩作りをしている釜の煙を目当てに寄ってほしい」と詠まれたのです。
融は豊かな財力に任せて、他にも嵯峨野の、現在は清涼寺がある地に棲霞観(せいかかん)という邸宅を設け、宇治には後に宇治平等院となる別荘があったとされます。なかでも、特に河原院は和歌の世界で重要な発信地として注目されています。
河原院は、融が没した後に宇多院が一時とどまりますが、その後は荒れてしまいます。100年ほど後の「源氏物語」の夕顔の巻で、主人公・光源氏は親しくなった夕顔という女の隣家の喧噪を嫌って、女を「なにがしの院」という廃院に連れ出しますが、女は物の怪に襲われ、あっけなく一命を落としてしまいます。その廃院のモデルが河原院ともされています。
しかし、その廃院に多くの歌人が集うようにもなりました。中心は融の曾孫に当たる安法(あんぼう)法師という歌人ですが、「百人一首」に選ばれた人物で河原院に関わっている歌人を挙げると、まず上に挙げた在原業平で、次いで紀貫之です。
〈君まさで 煙絶えにし 塩釜の 浦さびしくも 見えわたるかな〉
融の没後(君まさで)まもなく河原院を訪れて詠んだ歌で、「古今集」哀傷にあります。また、「百人一首」で47番にある恵慶(えぎょう)法師の、
〈八重むぐら 繁れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり〉
は、「拾遺集」の秋にある歌で、荒れ果てた河原院で詠まれたものです。
ほかに、清原元輔(もとすけ)、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、平兼盛(たいらのかねもり)、藤原実方(さねかた)、藤原定頼(さだより)、能因法師が河原院に関わっている歌人として知られます。また、平安時代を通して河原院では、2回の歌合(うたあわせ)の開催も知られます。
このように河原院が注目されたのは、風雅を愛した源融の雅の故地だったことに拠ると言えるでしょう。それからすれば、源融が「百人一首」の作者に選ばれることは、ごく当然と思えます。ただ、その配置が陽成院に続いていることは、前回触れたように陽成院の退位時、融が次期天皇候補として自薦したと伝わるように、陽成院退位劇に連なる人物と判断されたためだと思われるのです。この源融に次いで15番に置かれたのが、陽成院に替わって即位した光孝天皇です。
〈君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ〉
「古今集」春上に、光孝天皇が即位以前、人に若菜を送るときに添えた歌として見えます。早春の若菜摘みは平安時代の代表的な年中行事の一つです。春でも残雪が衣の袖に降りかかる中で、作者が若菜摘みをする情景が目に浮かぶようです。「君」とされた人物はわかりませんが、一首全体から作者の、その人物に抱いている穏やかで温かな心が感じられます。若菜摘みを詠んだ秀作と言え、光孝天皇の人柄が感じさせられる気がします。
この歌は、「古今和歌六帖」と、院政期に和歌と漢詩を編纂した「新撰朗詠集」のほかは、定家の歌論書に入れられていて、定家好みの一首だと思われます。
さて、この歌は、天智天皇の歌に似ていることに気づきます。
〈秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ〉
特に後半では、まったく同じ「我が衣手」があって、「露」と「雪」を替えただけのようです。天智天皇の歌は、農民が稲の収穫が終わった後に粗末な屋根が隙間だらけの小屋で一休みをしていて衣の袖が露でしっとり濡れたという内容ですが、作者が天皇とされているのは、「天皇は農民と一体化して、人々の生活を保証する農作物の豊かさを一緒に喜ぶ立場にあるという考えから選ばれている」と、「百人一首」のコラムの2回目で書きました。
ここには、天皇による農民の労苦への深い思いやりを読み取るべきだろうと思います。これと光孝天皇の歌は、細かには違いますが、親王時代の天皇が、ある人のために袖に雪を受けながら若菜を摘むということに、篤い相手への愛情を読み取ることができます。
同様の見方は、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)という江戸時代の国学者の「三奧抄」という「百人一首」の注釈でも、
〈みこにて人ひとり恵ませ給ふ御心の位に就かせ給はば、万民に及ぶべし。しかれば天智天皇の御製に相並べてみるべき御歌なりといへり〉
とあります。このように見ると、二人の和歌は、天皇らしさという点で合わせられているようにも思えます。
陽成院の次に即位した58代の光孝天皇は、54代の仁明天皇の第三皇子です。陽成院から見れば、父・清和天皇(56代)の父である文徳天皇(55代)の弟ですから、祖父の弟です。太政大臣だった藤原基経の政治的思惑がこの異例で強引な代替わりを推し進めたことについては前回記しました。即位の時、光孝天皇は55歳でした。にわかな中継ぎの天皇として、政治上のことはすべて基経が領導することとされ、これが歴史上で実質的な関白の初めとされています。また、皇位を継承しない証しとして子女のすべてを臣籍に下しますが、実際には在位3年で、皇子だった源定省(みなもとのさだみ)が、59代の宇多天皇になっています。
光孝天皇は短い在位でしたが、宮廷行事の復活、寺院の建設、経費の節約、官吏の粛正などを行っています。「百人一首」の歌は早春の行事を詠んでいますが、年中行事が整備され、内裏清涼殿に「年中行事御障子」が立てられたのも、光孝天皇の時代です。年中行事の屏風が作られ、屏風歌も詠まれます。その人物について正史である「三代実録」では、
〈天皇少(わか)くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠……〉
と記されています。若くから聡明で、好んで漢籍を学ぶとあって、続く二字熟語の連なる意味を易しく言い直せば、「身の振る舞いは、しずかでしとやか。へりくだり慎み、柔らかで潤いがある。慈しみ恵み、心がひろい」となります。まさに最高の人格者と評されています。「君がため……」の歌にも、こうした光孝天皇らしさを認めることができるように思います。
「大鏡」には、基経の父良房の大饗(だいきょう 大臣就任の祝宴)で、下役が膳に盛る料理を落とした不始末を、皇子時代の光孝天皇が灯火を消して目立たなくしたが、その様子を覚えていた基経が、陽成院退位の折に源融が自分も皇族に連なると自薦したのを抑えて、光孝天皇即位を進めたことが書かれています。説話でも、基経が新天皇候補を見て回った時に、他の親王達は装束を改め敷物を用意したりと大騒ぎだったのが、光孝天皇は破れた簾の内で縁の破れた畳に座って落ち着いた様子だったことが基経の心を捉えたとか、親王時代に生活に困って町の人に借りた物を即位後に宮中の蔵から出して返したという話(二話とも「古事談」)や、即位後も以前の質素倹約を忘れず、宮中でも料理をして、その煮炊きの煤が付いたのが清涼殿にある黒戸だという話(「徒然草」177段)が残されていますが、これらもいかにも光孝天皇らしい挿話と思えます。
光孝天皇の次が宇多天皇、醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇と続きますが、特に醍醐・村上の時代は延喜・天暦の治と言われて、後に仰ぎ見るべき盛代とされます。和歌については、醍醐天皇の時に第一勅撰和歌集の「古今集」が編まれています。その千首を超える和歌の中でも天皇の作者は、光孝天皇ただ一人です。続いて村上天皇の時に「後撰集」が編まれて、「新古今集」までの八代集の出発になります。このように見れば、光孝天皇の和歌について、「百人一首」冒頭の天智天皇の和歌内容との類似性は、まさに天智天皇と並び立つように、光孝天皇が後の平安時代を通して続く新たな皇統の輝かしい始発として位置すると確認できるように思います。また、それは前回の天皇と院を対照させた言い回しを使えば、陽成院の暗に対する光孝天皇の明ということも言えると思います。
《参照文献》
王朝の映像 角田文衛 著(東京堂出版)
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
貴族社会と古典文化 目崎徳衛 著(吉川弘文館)
平安朝 皇位継承の闇 倉本一宏 著(角川書店)
読み下し 日本三代実録 武田祐吉・佐藤謙三 訳(戎光祥出版)
伊勢物語・大鏡・古事談・徒然草 新編日本古典文学全集(小学館)
王朝歌壇の研究 桓武仁明光孝朝篇 山口博 著(桜楓社)