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「百人一首」にある陽成院の和歌とは、13番目に位置する次の和歌です。
〈筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる〉
一首の内容は、筑波嶺の峰から流れ落ちる川は「みな(水無)の川」の意味からすれば、出発はほとんど水も見えないほどの細流だったのが、下流では積もり積もって淵を成したけれど、この川は「みな(男女)の川」でもあるから、時を経て恋の思いもそのように深まりました、という恋する思いの深さを相手に訴えた和歌です。
「筑波嶺」は茨城県にある古代から知られる筑波山です。「みなの川」は、筑波山の中腹を発して「桜川」に流入し、霞ケ浦に至る川で、水無川・男女川などの表記がありますが、後者は筑波山の男体山、女体山の峰の間から流れ出るということから名付けられたとされます。「男女」が恋歌に相応しいとして用いられたのかもしれません。この陽成院の歌が最も古い例で、以後何首かに見られますが、編者とされる藤原定家は三首に詠んでいます。
この歌は、第二勅撰和歌集「後撰和歌集」の恋三に、「つりどののみこにつかはしける」という詞書で収められており、それが出典です。
最初に有名歌人ではない人物に注目すると申しましたが、この歌が勅撰集に入っている陽成院唯一の和歌です。「百人一首」には、伝説的な歌人である猿丸大夫を除いて、他に勅撰集入集が一首のみという人物はいません。また、この歌は「古今和歌六帖」という作歌手引きのための類題和歌集以外では、藤原定家が八代集から秀歌を抜粋した「八代抄」に選ばれているのみで、ほかに評価された形跡もありません。
「百人一首」が優れた歌人達の秀歌選であるとするなら、例外の一首だと言えそうです。そうして見てくると、なぜこの歌が「百人一首」に選ばれているのかは考える余地がありそうです。
この「百人一首」のコラムで第2回目(百人一首には順番があった?)に、選ばれた和歌には順序が決められていること、初めの二首が天智天皇親子、最後の2首が後鳥羽院親子で、前者を明とするなら、後者は暗とも言える対照があるとも申しました。
こうした天皇と院の歌は「百人一首」の中に、他に天皇一人(光孝天皇)、院三人(陽成院·三条院·崇徳院)の歌があります。そして天皇と院の明と暗は、これら4人にも共通するように思えます。つまり、陽成院以下の三人の院には、それぞれ暗と評するに相当することがあります。その視点で、陽成院についてみて行きましょう。
陽成院は、元慶元年(877)正月に10歳で父・清和天皇を継いで即位しますが、同八年(884)2月に17歳にして、天皇自身が病のために譲位の意志を表したと歴史書『三代実録』には記されています。しかし、実は病ではなく、太政大臣の藤原基経によって退位を迫られたとも言われています。その理由になりそうな行動の多くが記録されていますが、中でも最も重大な事件は、同書に見える譲位の前年11月10日の記事で、陽成天皇の乳母子が宮中の殿上で「格殺(手で打ち殺す)」されたというものです。記事には何の説明もありませんが、陽成天皇がしたことと理解されます。同月16日には、天皇が馬を好んで宮中でこっそり飼っていたとあり、天皇には不法なことを煽動する取り巻きとも言うべき者達がいて、太政大臣が彼らを駆逐したとあります。時期的に見れば、この一連から、ほかに書かれていないことを含めて陽成院が天皇に相応しくないと退位を迫られたとするのは説得力があるように思われます。
ほかにも、陽成院の天皇という立場に相応しくない行為はいくつも知られています。以下に、陽成院の二代後の宇多天皇治世での記録「宇多天皇御記」に引用されている、平安末期編纂の歴史書「扶桑略記」から寛平元年(889)の記事を挙げてみましょう。
▼陽成院に属する人々の災いは世間に満ち、人々を侮り蔑んで、天下には愁いと苦しみの声が高く響いている。もし乱暴者がいれば陽成院の者と言い、院は悪い主君の極みと今は見える。(8月10日)
▼陽成院が摂津国島下郡(現大阪府摂津市周辺)の藤原氏助の邸に家来とともに乱入し、家内の人々は山や沢に逃げ去った。それは安倍山の猪鹿狩のためで、夜は松明を灯し、ことごとく武装し弓矢を帯び、騎馬で行列している。山は陽成院のための猟場となって、往来する人は苦しみ難儀し憂えている。(12月2日)
▼左大臣・源融(みなもとのとおる)が天皇に奏上したことには、宇治にある別荘に陽成院がやってきて、柴垣をことごとく壊し、朝には山野に猟に出て、夕には村里で略奪を重ね、左大臣の別荘の馬を駆りだし原野を駆けている。(12月24日)
ほかにも、「今昔物語集」などに説話があります。「古事談」では、在位中、「邪気によりて普通ならずおはします時」に、陽成院が三種の神器の一つの神璽(しんじ 天皇の印)の箱の蓋を開けて中から立ち上った白雲に恐れて打ち捨て、また別の時には宝剣を抜き、その閃く光を恐れて打ち捨てたという話を伝えています。
陽成院の常軌を逸した粗暴な行動には、精神病理的な要因も想定できますが、すべてが事実なら天皇としては不適格と言わざるを得ません。鎌倉時代初期の慈円による史論「愚管抄」では、院の退位を次のように記しています。
〈……なのめならず、あさましくおはしましければ、伯父にて昭宣公基経は摂政にて…「是は御もののけの、かく荒れておはしませば、いかが国主とて国を治めおはしますべき」とてなん、下ろし参らせん……〉
(陽成院について)尋常ではなく、呆れるほどの行いなので、母の兄でもある摂政の基経は、帝は物の怪が憑いて暴れていて国の主として統治は不能だと主張し、退位させたとしています。
陽成院の奔放さは、母親の藤原高子に通じるとも見えます。彼女は「伊勢物語」の三段~六段に至る歌物語で、「二条の后」として登場し、在原業平らしき男との許されぬ恋人のモデルとされる人物です。清和天皇の女御となり陽成院を産み、天皇の譲位後は皇太后となりますが、自ら創建した東光寺の僧・善祐との情事が発覚します。すでに上で引用した「宇多天皇御記」で引用された「願文集」という書に、「陽成君母后不豫(病気)…善祐の兒を娠み(妊娠し)、その期に臨む…」(寛平元年9月4日)とあり、この時高子は48歳ですから、少々いかがわしい話ですが、同八年には皇太后の尊号が剥奪されてしまい、その後生涯を終えた後に復位されます。
しかし、こうした陽成院の退位と高子の尊号剥奪は、必ずしも二人の資質と行動にのみ原因を見るのではなく、基経が陽成院・高子の排除と復活拒否を政治的に意図したとする見方が有力なようです。繰り返し引用してきた「宇多天皇御記」の記事が寛平元年に集中していることも、この親子の復活を抑える意図が陰にあったのかもしれません。陽成院から次の光孝天皇への皇位継承も極めて異例なもので、通常親子間ないし兄弟間で引き継ぐところ、陽成院から見て祖父(文徳天皇)の弟に移ることになりました。実は、退位劇を主導した基経の母親は、光孝天皇の母親と姉妹であり、光孝天皇は基経にとって極めて親しい存在で、基経には信頼に足る人物だったと思われます。光孝天皇については、回を改めて触れたいと思います。
さて、陽成院が先ほどの和歌を送った「つりどののみこ」とは、光孝天皇の第三皇女綏子(すいし・やすこ)内親王です。「本朝皇胤紹運録」という皇室の系図には、綏子について「陽成院に配す、釣殿宮と号す」とあります。陽成院との仲は即位以前のこととする説もありますが、様々な情報を収録する「二中暦」という書には、「釣殿院 今六条院なり もと光孝天皇御所と云ふ 綏子内親王に付属す」とあって、綏子内親王が釣殿を父・光孝天皇から譲られて「つりどののみこ」と称されたのなら、二人の仲は後年のことと思われます。実際、延喜七年(908)12月21日に綏子内親王が陽成院のために四十賀の祝いを催してもいて、それも参考になります。
綏子の父が陽成院の直後に即位した天皇であることには何か隠された事情があったのかと推察されます。二人の仲は、光孝天皇亡き後、次に即位した宇多天皇が同母妹の綏子を陽成院に近づけて関係の融和を図ったとも言われています。陽成院の劇的な退位事件から時を隔てて、院の心も生活も静かで穏やかになった中で詠まれた歌とすれば格別無理はないと言えるかもしれません。
一首の内容を繰り返せば、出発はほとんど水も見えないほどの細流だった川が、下流では積もり積もって淵を成すように、時を経て今は恋の思いも深まりましたというものです。恋の初めの逡巡を実人生の苦い過去への思いに重ね、時を隔てて変化して穏やかになった現在に恋心の深まった今を詠んでいるとも解釈できます。しかし、注釈書には、「「淵」が暗く淀んだ情念のたまり場に思えてくる……怨念じみた情念を感じずにはいられない。」(谷知子 「百人一首(全)」 角川ソフィア文庫)とするものもあり、退位劇の陰に藤原基経による策謀があるとすれば、そうした理解も説得力があるように感じられます。
藤原定家は、「みなの川」を含む自然詠を三首詠んでいますが、ほかにも陽成院の歌を本歌取りした恋歌があります。
〈袖の上に 恋ぞつもりて 淵となる 人をば峰の よその滝つせ〉
袖の上には恋の涙が積もって淵となっているが、恋しい人は見られない。峰のよその滝つ瀬は一つになるのに、といった悲恋の歌で、「峰」と「見ね(見ない)」が掛詞になっています。特に陽成院の歌の下の句「恋ぞ積もりて淵となりぬる」の深い恋心を共感して自作に用いたのだと思われます。
定家は、陽成院の歌を純粋に好んで「百人一首」に選んだのだろうとは思われますが、陽成院退位の審議状況を伝える「大鏡」で、次の天皇について「近き皇胤を尋ねば、融らも侍るは」(間近に天皇の親族を探すなら、融もおりますが)と自薦した源融の和歌が、「百人一首」で陽成院に続く14番で、15番が次の天皇に決まった光孝天皇であることからすると、陽成院の退位劇が「百人一首」編纂と無縁だと言うことはできないようにも思います。
陽成院の和歌で表現された淵を成すような淀んだ思いが天皇退位劇の怨念を連想させることも必然的に思えます。そして、そうした暗さと重さは、後に続く三条院・崇徳院と合わせ、後鳥羽院の承久の乱での挫折にまで響くと想像が及びます。
結論的に陽成院の和歌を評すれば、退位から時を隔て落ち着いた中での恋心の深まりが詠まれつつ、退位前後での暗い重苦しさをも読み取り得る二重性を抱えた作品であるように思われます。
《参照文献》
王朝の映像-平安時代史の研究 角田文衛 著(東京堂出版)
百人一首の作者たち 目崎徳衛 著(角川書店)
平安朝 皇位継承の闇 倉本一宏 著(角川書店)
歴代宸記 増補史料大成(臨川書店)
読み下し 日本三代実録 武田祐吉・佐藤謙三 訳(戎光祥出版)
大鏡 新編日本古典文学全集(小学館)
愚管抄 日本古典文学大系(岩波書店)