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6月の異称には、葵月、弥涼暮月(いすずくれづき)、風待月(かぜまちづき)、涸月(こげつ)、蝉羽月(せみのはづき)、林鐘(りんしょう・はやしのかね)など、風情のある月名が数多くあげられますが、誰もが知る呼び名はやはり水無月でしょう。水無月の意味について、「雷がよく発生するのでかみなり月。この上と下の音が省略された」とか「田植えの一連の農事が終わり『皆尽きる』からみなつき」とか、ややダジャレのような説や、十二支の「巳の月」だといった説もありますが、諸説のメインストリームは「水無月の意味は水がある月かない月か」に集約されます。
水無月という漢字文字から来る意味については、旧暦の頃から議論がありました。旧暦6月は現代の暦の6月下旬から8月初旬の期間で変動しますが、太陽暦となった現代では、6月といえば大半が一年でもっとも雨の日の多い梅雨真っ只中。水が無い月という意味とあまりに乖離するため、新暦以降のほうがその意味を取りざたすることが多くなった傾向があります。
『倭訓栞』(谷川士清 他 1777~1887年)では、
「みなつき」を「水月の義なるべし、此月は田ごとに、水をたヽへたるをもて名とせり」
とし、「無」の文字を接続詞「の」の意味としています。
一方、より古い新井白石の『東雅』(享保二年/1717年)の「巻之一 天文」の部には、
水無月といふは水涸れて盡(つく)るの義なりといふなり。水無瀬などといふ地名もあればさもあるべしや。されど此月は疫(えき)やみする事ありて御祓(みそぎ)する事なれば是等の事にありぬらん。(中略)古語にはノといふは轉してナとなりし事はいくらもあり、水上の如きミノカミといふべきをミナカミといひ・・・
とあり、当時から水無月を「水の無い月」とする説があったことを紹介しつつ、白石もそれを否定し、「無=な」は、「の」の意味であるとしますが、一方「水=み」のほうは水ではなく「みそぎ」が省略されたものだと主張しています。実際、六月つごもり(旧暦6月30日)は「夏越の祓(なごしのはらえ)」で、茅の輪くぐりをして厄を祓う行事が伝わるので、一理あります。
「水無月」「神無月」の「無」は欠乏の「無い」の意味ではなく、接続詞「の」の意味で、水無月は「水の月」、神無月は「神の月」という意味だ、という説は、現代ではもっとも支持されている説です。歳時記などには、「水無月や神無月は、水の無い月、神の無い月という意味ではありません。水の月、神の月という意味です」と断言している記述も多く見られます。
では、なぜこの二つ以外の和風月名には接続詞「な」が付かないのでしょう。卯月は「うな月」、文月は「ふみな月」、葉月は「はな月」、長月は「ながな月」…となってもよさそうなものです。
そもそも「水無月」は普通に読むなら「みずなづき」で、「みなづき」はその音節(シラブル)省略です。わざわざ「みず」を「み」と省略しておいて、わざわざ接続詞「な」を加えるというのは、名詞の成り立ちとしてちぐはぐで不自然に感じられます。白石の「みそぎ」説も同様です。
和風月名の典拠となる古典は日本書紀です。この日本書紀ですが、わずかに残る「古本」と呼ばれる奈良・平安期の写本には訓読の記述がなく、卜部写本などの中世写本に、読み合わせ(読書会、勉強会)のテキストとして訓が附されました。月名については一月、二月、三月…と書かれていたものに、中世の写本から「むつき」「きさらぎ」「やよい」などの訓があてられていたもの。この仮名文字に、後から音に合わせ、あるいは漢籍の月名から転用(如月や皐月など)されたものが、今知られている「睦月、如月、弥生…」という見慣れた和風月名の文字列なのです。ですから、「みなづき」の本源の意味をさぐりあてようというなら、シンプルに音そのものから意味をさがさねばなりません。
「み」といってまず思いつくのは植物の果実、「実(み)ではないでしょうか。もし「みな月」が秋ごろの月名ならば、「実の月」という説がすぐに浮上するでしょう。ところが盛夏の月名なので、どうも「実」とイメージがむすびつかないわけです。でもよく考えてみれば、多くの実が「成熟」するのは秋でも、その実自体は未成熟ながら夏には出来ている、つまり「生(な)って」いるのです。月名の意味を探るときに、近世人も現代人の私たちもつい稲から連想しますが、古代和語の起源を稲作の渡来普及よりも古いものと考えるならば、日本古来の自然の風物にこそ注目せねばなりません。
日本列島の在来の果樹といえば、クリ、柿、そしてドングリです。クリの花は5~6月ごろ強烈なにおいを放つ花をつけ、モール飾りのようなクリーム色の雄花が落花すると、受精した雌花の子房が残り、あのイガに覆われた独特の果実が、夏ごろには小さく出来上がっています。柿も、6月ごろに蝋質の花弁を持つ黄緑色の花を枝につけ、夏ごろには雌花の子房がふくらんで、柿の実が形成されています。シイやクヌギ、カシなどの実であるドングリ類も、秋になって落花してこなければ普通は気づきませんが、夏には茂った葉の間に未熟なドングリがたくさんついているのです。これらの実は、狩猟採集の時代はもちろん、稲作の時代に入っても人々の重要な食料でした。ですからそれらの果樹の「実が生る」ということは、古代人には重要な意味を持っていたはずです。「実、生る月」が「みな月」となった、と考えることは不自然ではないと考えますが、いかがでしょうか。
もちろんこの説は、旧来の解釈に違和感を抱きつづけてきた筆者の持論(想像)で、根拠はありません。和風月名は、すでに登場当時から「意味がよくわからない」ものとして扱われてきて、全ての説は根拠のない仮説なのです。古人がさまざまな説を提唱したように、現代の私たちも、忌憚なく自説を提唱し、議論を交わし、深めていきたいと思うのです。
さて、旧暦の6月晦日には、沐浴潔斎をしたり、呪術儀式を施した人形を身代わりにして川に流して厄落としをするなどの行事が行われていました。百人一首の98番では賀茂川で禊をする人々の様子が歌われています。
風そよぐ楢の小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける (従二位家隆)
現代でも新暦の6月30日ごろに武塔神と蘇民将来伝説に基づく茅の輪守りの配布や、神社にしつらえられた巨大な茅の輪を八の字に(∞を描くように)くぐる「茅の輪くぐり」も、全国各所の神社で行われています。
でも「茅の輪」って何でしょう。茅葺(かやぶき)屋根とか、茅場町(かやばちょう)などの名詞があるとおり、「茅」というと「かや」と読むことが多く「ち」と読むことはあまりないかもしれません。本来「茅」はイネ科チガヤ属のチガヤ(茅萱 千茅 Imperata cylindrica (L.)P.Beauv.)の種を指し、本来の和訓は「ち」です。後に、イネ科のススキやカヤ、ヨシ、スゲなど、生活用具に使われるイネ科の雑草全般に「茅」という字が使われ、「かや」とも読まれるようになりました。
チガヤは全国の土手の空き地や草原、田の畦などのやや湿りけのある土地に匍匐根茎で群生する、草丈30~60cmほどの多年草です。5月ごろ、子ネコの尻尾のような銀色のかわいらしい花穂をつけた雑草が群れているのを見たことはありませんか?それがチガヤです。ユーラシア大陸や北アフリカなどの旧世界に広く分布します。細くてしなる茎や、イネ科らしい剣状の葉の葉先や縁が赤褐色になり、「ち」という和名は赤い血を連想させる茎葉の色から来ているという説もあります。古くよりその生命力と赤い差し色から霊力の強い植物と考えられ、『日本書紀』では神代の天の岩戸神話の一節に、チガヤを巻きつけた一丈八尺の馬上長矛が、太陽(アマテラス)の復活儀式の中で登場します。
又猨女君(さるめのきみ)の遠祖(とほつおや)天鈿女命(あめのうずめのみこと)、即ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天石窟戸(あまのいわやど)の前に立たして、巧に作俳優(わざをき)す。(日本書紀 神代上 第七段本文)
武塔神(スサノヲノミコト)が恩義を受けた蘇民将来の子孫である証であり、疱瘡疫病除けの茅の輪守りも、本来はチガヤで編んでいたものですが、細くて切れやすいチガヤよりも、丈夫で太いスゲやススキの茎に次第に置き換わっていったようです。室町時代前期ごろには既に、茅の輪はスゲになっていたようで、これを「菅貫(すげぬき)」と言います。
夏はつる今日の禊の菅貫をこえてや秋の風は立つらむ (慈円 拾玉集)
旧暦の6月晦日は暦では夏の最後の日。日暮れが少し早くなり、ひぐらしの声が反響し、秋の虫の声も聞こえだす、そんな晩夏の頃です。梅雨の真っ只中の新暦の6月30日とはだいぶ趣は異なりますね。とはいえ、一年の半分が終わる、という重みは旧暦も新暦も同じ。人の浮世の悩みや不安を知ってかしらずか、チガヤの銀色の穂波は、今年も変わりなくキラキラと輝いています。
参考・参照
日本古典文学体系 日本書紀 岩波書店
東雅