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7世紀に始まり時代の為政者に愛でられ守られて来た鵜飼の、「今更聞けない」歴史とエピソードをご紹介します!
鵜飼(うかい)は川魚を獲る技法の名称ですが、その始まりは7世紀頃までさかのぼり、『古事記』や『日本書紀』、さらに正倉院に納められている文書、702(大宝2)年の戸籍にも、美濃国(現在の岐阜県)出身の鵜飼を生業としていたと推定される人物の名前が残っている記録があります。
1300年の時を超えて今に伝わっている鵜飼は、その後室町時代には足利義教の観覧記録を皮切りに、織田信長、徳川家康と為政者の目にとまり続けて来ました。中でも織田信長により鵜飼は一つの漁の技法から「魅せる」もてなしへと変貌を遂げました。
宵闇に篝火の灯りが映り、その上に浮かぶ船で「ほうほう」という独特の掛け声をかけながら鵜匠が鵜を操る姿、それを別にしつらえた船から眺めるという形は、織田家の慶事にまつわる賓客へのもてなしに始まったのです。その後徳川時代には幕府の保護と献上が始まり、初代尾張藩主から鵜飼上覧が慣例となりました。
この流れは次代へと引き継がれ、1878(明治11)年明治天皇の岐阜巡幸中に、随行した岩倉具視らが鵜飼を観覧し天皇に鮎が献上されました。その後1890(明治23)年には、宮内省(現在の宮内庁)が長良川流域の3か所を御猟場(現在の御料場)と定め、通年の禁漁区としたと同時に、鵜匠は宮内省主猟寮に所属し安定的に鵜飼を継承しています。
ここまで技術からもてなしへと変遷しながら継承してきたことを振り返りましたが、鵜飼がここまで長い間守られ継承されてきたことと、鵜匠と鵜の絆を切り離すことはできません。
「ぎふ長良川鵜飼」ホームページには「鵜飼TV」という映像コンテンツがあります。いずれも興味深く見応えがあります。その一つにベテラン鵜匠の山下さんが鵜との生活を語る「長良川鵜飼開幕〜山下純司、鵜と鵜匠の語らい」があり、筆者のおすすめです。
鵜との生活は、毎朝餌を食べさせ身体に触れることから始まります。それぞれの体調を確認して漁に連れて行く鵜を決める、その気持ちは鵜にも伝わって喜んだり寂しがったり…。鵜と鵜匠の関係は上下ではないのです。山下さんはある時ふと「鵜のこころ 鵜匠のこころ、今日語らい 明日また語らう、このえにし鵜と鵜匠の一生なり」と言う言葉を思いついたとおっしゃっています。技の伝承だけではない、だからこそ鵜も相棒として存在しているのでしょう。
今年はまだ漁の予定も決まらないためstay homeです。筆者も家で鵜飼情報を眺めながら、鵜飼の再開を心待ちにしています。
【関連情報】
岐阜市内において、5月中に計5回「悪疫退散」の花火が全てサプライズで打ち上げられています。集客無しです。万一、人が集まったら中止ですので音が聞こえてもご自宅から見上げてくださいね。
・出典
ぎふ長良川鵜飼 ホームページ
・写真提供
岐阜市鵜飼観覧船事務所