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小川芋銭(本名・小川茂吉)は江戸時代最後の年・慶応四(1868)年に、常陸国牛久藩の目付役・小川家に生を受けました。体が弱かった芋銭は、伯母の援助を受けて画塾「彰技堂」で日本画を学び、新聞社の画工(挿絵画家、取材画家)として出発します。
朝野新聞、いはらき新聞、東京日日新聞、俳誌「同人」、東海美術など、さまざまな媒体に作品を発表、各地で展覧会にも出品します。
「ホトトギス」の表紙絵を担当したこともあり、その際には妖怪「豆腐なめ(豆腐小僧)」の滑稽な姿を描いていますが、権威や見てくれの格好良さには一切関心のない芋銭の気質がよくあらわれています。ちなみに芋銭という号は、自分の絵が芋を買う銭くらいにでもなれば、というつつましい願いを込めてつけられた、ともいわれます。
芋銭の洒脱でのびのびとした画風は、彼が南画の末裔であったこととも関係があります。南画とは、南宗画の流れを受けて江戸時代初期ごろから発生した、絵と画讃(絵とともに書かれた文、詩、歌)がセットの、いわゆる文人画(文人とは詩文・書画、哲学思想に通じた教養の高い文化人)のことです。俳人・与謝蕪村も南画家でした。南画は権威を嫌い、飾らない私的な世界に遊ぶ心を大切にしました。
芋銭は古今の東洋文学・思想書を耽読し、その奥深い世界を自身の画業に融合させていきます。代名詞の河童の画題は、出版物としては「東海美術」に内藤鳴雪や河東碧梧桐の俳句の挿絵として登場し、次第に芋銭の画題の中心に居座るお気に入りのキャラクターになっていきました。
挿絵や表紙絵、新聞のイラストなどのメディア関連の仕事をしていた芋銭ですが、本格的な日本画家への道を模索し、平福百穂、川端龍子らと共に日本画のサークル「珊瑚会」を立ち上げます。そして大正7(1918)年の珊瑚会展で発表した、禅を題材にした「肉案」が横山大観の目にとまり、日本美術院の会員に推挙され、日本美術院同人の日本画家としての活動が始まりました。
けれども、アカデミックな美術院の権威には一切おもねることなく、独自の妖しく、そしてユーモラスな画風を貫きます。代表作の一つ「水魅戯(すいみたわむる)」では、渦巻く水とも火とも見える立ち上る靄の中に、鳥やサンショウウオ、カッパなどが、あたかも百鬼夜行のように群れ戯れる姿を描きます。この大正12(1923)年に発表された作品は、おりしもその年の9月1日に発生した関東大震災を予言したなどと、誰ともなく噂が立ち、奇人芋銭を快く思わない者たちの中には「芋銭があんな絵を描くから震災が起きた」などと口さがなく中傷する者もいたといいます。
昭和3(1928)年の日本美術院展に出品した「浮動する山岳」では、渦巻く雲海の中に浮かび上がる奇怪な山容を描きます。山の形がカラスの頭や翼のようなダブルイメージにもなっただまし絵、隠し絵のような異様な画面に、つい近年の平成24(2012)年、芋銭自身の斜め横顔も山の形の中に描かれていることが、茨城県牛久市小川芋銭研究センターの香取達彦氏により発見されました。自然の景観と一体化した鳥や自分自身。これは何を意味するものでしょう。西洋のシュルレアリスム絵画やボッシュ、ブリューゲルなどの幻想画にも、また江戸時代の浮世絵版画にもこうしたダブルイメージ、隠し絵、だまし絵は見られますが、これらは奇抜な発想や奇怪なイメージで驚かそう、という意図をもって描かれたもので、そのトリックに鑑賞者が気づかなければ意味がなく、気づいてもらえるように描いています。
一方、芋銭の隠し絵は表現したい思想を視覚化したもの。奇抜・ユニークなアイデアを画像化し、見るものに驚きを与えることが目的ではありません。だからこそ隠されたイメージは80年以上誰にも気づかれることがなかったのでしょう。
芋銭が日本美術院同人に推挙されるきっかけになった「肉案」は、禅書『五灯会元(ごとうえげん 1252年)』に所収された「盤山精肉」の逸話が元になっています。「よい肉を用意してくれ」と求める客に、偏屈な肉屋がブチギレ、「どこに悪い肉なんかあるのか。うちの肉は皆よい肉だ」と返答するのを通りがかりに耳にした盤山和尚が、禅の真髄を一瞬で悟る、という不思議な話で、盤山が悟りの喜びを両手をあげて万歳している姿を画面いっぱいに描いています。よいものも悪いものもない。好き嫌い、善悪を分けてしまうのは人為であり、人もまた他の森羅万象とともに人為を捨てて、自然に倣い生きたいものだ、というのが芋銭の考えで、こうした思いが、山容と自分の顔とが合体させた「浮動する山岳」の隠し絵となったのでしょう。芋銭の絵には、あたかも自然に湧き出る泉のように、一見他愛ない画面の奥に深い淵を湛えていて、そこに彼の創造の源、すなわち河童が住み着いていたのかもしれません。
芋銭晩年の畢生(ひっせい)の画業となった「河童百図」は、昭和13(1938)年、つまり芋銭没年の3月に俳画堂から刊行されました。自序で芋銭は「余は唯想像の翼に任せて、筆端カッパを捉らへカッパを放ち 遊戯自在に振舞ひて終に三昧に入るを以って楽しみとなす」と記し、自身の投影であり自由のシンボルであったカッパを自在に、カワウソ、大ダコ、力士、鷺娘、山童、からす天狗、山姥、人魚、金太郎、カカシ、川魚や水鳥などと遊ばせ、伝説や民話、歴史の中に登場させて描きます。
一つとして退屈な画題はなく、それぞれに深遠な造詣と薀蓄(うんちく)がさりげなく織り込まれ、またその筆致は変幻自在で、眺めれば眺めるほど芋銭カッパのかわいらしさやおかしさ、そしてとらえどころのない不気味さに魅入られてしまいます。
第十五図「道在於河童皿」では『荘子』知北遊篇を典拠に、「『道』はどこにありますか」と河童が荘子らしき人物に尋ね「君の頭の皿にもあるよ」と返答されるシーン描かれています。ぽかんとしている小さな河童の後姿のかわいらしいこと。
第三十八図「カッパ楽しむ」。画讃は「カッパ江に浮びて悠々たり 是カッパの楽しめるなり 客曰(いわく) 子(※荘子のこと)はカッパにあらず なんぞカッパの楽しさを知らんと」とあり、『荘子』秋水篇の惠子と荘子の問答を下敷きにしています。薄墨でもやもやと描かれた無邪気な河童。
第五十六図「雌河伯」では、「利根川図志」にも登場し芋銭が長く逗留していた娘の嫁ぎ先・利根町の伝承を基にした禰々子(ねねこ)河童を描いていますが、禰々子は関八州の河童の頭領ともいわれ、大変な暴れ者のメスガッパとして知られているのですが、これを伝承のような恐ろしい姿ではなく、まるで少女のようなぱっちりした目と白い手足で描いています。
第七十図「獺の祭にゆくカッパ」のウキウキした姿。出典は、当コラムでもおなじみの、礼記が原典の宣明暦七十二候の「獺祭魚」です。
挙げはじめるときりが無いのでこのへんにしておきますが、「河童百図」は見飽きることのない逸品です。
芋銭晩年の画室と居室のあった牛久沼のほとりの「雲魚亭」のすぐそばには、芋銭先生記念碑、通称「河童の碑」が建っています。昭和27(1952)年5月、数少ない有志の尽力により建立されたもので、表には芋銭筆による河童の絵を元にしたレリーフ(一部ではこの絵は芋銭画ではないという説が流布していますが間違いです)と、複製色紙に印刷されていた芋銭の筆による画讃「誰識古人畫龍心」が刻まれています。
裏には芋銭の略歴と建立の志が刻まれていますが、記念碑では当然あるべき建立者の名前は刻まれていません。これは建立に奔走した、芋銭の最も深い理解者で記念碑建立の発起人、福島公立病院の池田龍一医師と、建立までのあらゆる実務的差配を取り仕切った東京の洋画家・吉井忠の二人の意志が貫かれたからで、名誉欲・虚栄心に蝕まれた生前の芋銭の知人の中には、自身の名前を刻ませようと画策した者もあったことが、池田、吉井の書簡から明らかになっています。
世俗の欲や虚飾とは一切関わりなく、筆先から生み出されるかわいらしく、それでいて、ときに自然そのものの怖さをギラリとした白目に宿らせたカッパを自由に遊ばせることに専心した芋銭。水墨画のような冬の牛久沼に、芋銭と河童を訪ねてみてはいかがでしょうか。
小川芋銭 河童百図展 図録 (茨城県立歴史館)
小川芋銭研究
雲魚亭(小川芋銭記念館)