- 週間ランキング
「牛頭天王」と聞いて、「ああ、あの神様ね」とピンと来る人は、今の日本人にはほとんどいないでしょう。しかし慶応4(1868)年の「神仏判然令(神仏分離令)」では、「中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事。」と、「権現」と「牛頭天王」の神号を用いる寺社は、その名前を改めろ、と厳しく布告していて、名指しで禁令を出されています。
つまりそれは、諸権現(清瀧権現、飯縄権現、金比羅権現、東照権現、春日権現、熊野権現など)と単体神号で並列に扱われるほど、江戸時代以前の日本では「牛頭天王」は広くあまねく信仰される、人気の神仏だった、ということです。そしてこの「牛頭天王」が、祇園祭を執り行う八坂神社、かつての「祇園社」の祭神でした。
「祇園」とは、天竺五精舎(仏教の黎明期、古代インドに建造された5つの寺院)の一つで、祇樹給孤独園精舎、いわゆる祇園精舎のことです。「平家物語」の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」で知られるとおり、海のかなたの仏教の聖地として、古くから日本人の憧れと幻想をかきたててきた名でした。この祇園精舎を守護するのが、牛頭天王。このように聞くと、国際色豊かな外国由来の神様なのかと思いきや、日本以外の地域の信仰との関連が判然としない、出自不明、正体不明の神なのです。
牛頭天王の名は、「法華経」「華厳経」などのいくつかの経文に記される「牛頭栴檀(ごずせんだん/ゴーシールシャ・チャンダナ gośīrşa candana)」からとられたものと考えられています。牛頭栴檀とは、南インドのヒマラヤ山脈の牛頭と呼ばれる山に生える香木から精製した香料のことで、麝香に似ているといわれています。「伊呂波字類抄(橘忠兼 1145年ごろ)」では、武塔天神が牛頭天王の別名として記載されます。けれどもこの武塔神というのもよくわからない神。神話として登場するのが備後国風土記の「蘇民将来」の逸話です。
北方の海に住んでいた武塔神は、妻候補を探して南へと旅をします。その途上、一夜の宿を借りようと、土地の長者巨旦将来(こたんしょうらい)を訪ねますが断られます。そこで巨旦の兄で貧しい蘇民を訪ねると、質素ながらも暖かく武塔神を迎え入れます。後日、妻を娶り八人の王子も儲けた武塔神は一宿一飯の礼にと、蘇民将来を訪ね、「茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ。吾は速須佐雄(ハヤスサノオ)の神なり。」と自らの正体をあかし、さらに、「後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫(うみのこ)と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人はまぬかれなむ。」と語ります。さらに、自分を冷遇した蘇民の弟、巨旦については、一族郎党疫病にして殺してやった、とも語ります。武塔神がスサノヲならば、牛頭天王もまたスサノヲということになり、また武塔神=スサノヲ神=牛頭天王は、疫病を思いのままに起こし、また疫病から守ってもくれる、祟りと恩寵、両面性のある神ということになります。こうして、疫病除けの祭礼としてはじまった祇園祭では、「蘇民将来」の護符を配り、祇園祭に先立つ6月30日には、茅の輪を作り、くぐることで厄除けをする風習も結びつく縁起が誕生したわけです。
869(貞観11)年にはじまった京都の祇園祭は、今年で1150年の節目となります。豪華壮麗な装飾で重量12トンにもなる巨大な山鉾(鉾・曳山)、仮装や踊りが華やかな花傘に注目が集まりがちですが、祭りの中心は八坂神社から担ぎ出される三体の神輿と、その神輿を先導する綾戸國中神社の久世駒形稚児が騎乗する騎馬です。神輿は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊=牛頭天王)が乗る中御座、その后であるクシナダヒメノミコト(櫛稲田姫命=頗梨采女/はりさいじょ)が乗る東御座、二神の御子神であるヤハシラノミコガミ(八柱御子神・八王子)が西御座に乗り、いわば家族のお出ましとなります。
全国に2000以上の分社のある八坂神社。同系列(スサノヲ神を主祭神とする神社)には、出雲系の八雲神社、八剣神社、八重垣神社、熊野神社、分化して発展した東海地方、愛知県を中心とした津島神社(津島牛頭天王社)、関東の埼玉県を中心とした氷川神社、津島神社と同様に江戸時代以前には牛頭天王社と称していた須賀神社などがあり、その多くが祇園祭もしくは天王祭を執り行っています。そればかりか、同じ出雲系のタケミナカタノミコトを祀る諏訪神社や、菅原道真を祀る天神社も祇園祭を行うところは多いのです。
そこまではまだしも、さらに異色なのが何と真言宗の寺院で不動明王を祭る成田山新勝寺の祇園祭です。その歴史は400年にも迫る歴史のあるものです。実は牛頭天王は医薬の守護仏である薬師如来信仰とも習合され、牛頭天王の本地仏は薬師如来ともされているのですが、薬師如来は様々な薬草に知悉することを必須とされた山伏、つまり修験道者の信仰ともつながり、修験道の出羽三山、その奥の院の湯殿山は牛頭天王も祭っていたのです。
成田山は古くは湯殿山信仰の修験者たちの修験場でした。JR成田駅東口交番の脇に佇む湯殿山権現社。祠のサイズに合わない広めの一帯が、俗人立ち入り禁止の聖地とされていて、新勝寺に管理されています。ここが成田祇園のもともとの主催社なのです。
祇園祭の執り行われる7月には、氏子信者たちはキュウリを食べないといわれます。八坂神社の神紋=木瓜紋が輪切りにしたキュウリの断面と似ているために恐れ多いということのようなのですが、不思議なことに将門のお膝もとの下総(千葉県北部)を中心とした関東にも、将門の家紋である九曜紋に似ているからキュウリを食べない、という将門の子孫を自称する集落や氏子信者が存在するようなのです。平将門も、スサノヲそして牛頭天王と習合されて信仰されていたことは間違いありません。
そして、新勝寺は平将門調伏の寺として有名ですが、それは表向き。成田山の不動明王には、牛頭天王、スサノヲノミコト、そして平将門が習合されているのです。だからこそ、7月の祭礼は「祇園会」と呼ばれるわけです。
それにしてもなぜ武塔神=牛頭天王は、牛頭人躯の面妖な姿なのでしょうか。
ミケランジェロのあの有名なモーゼの像を思い出してください。その頭部から明らかに角が生えています。エジプトからユダヤの民を連れてパレスチナへと導いた(出エジプト)旧約聖書の英雄モーゼには角が生えていた、とする聖書の記述があるからです。一部でこれを誤訳だとする説もありますが、そうではありません。古い時代の神のイメージは、しばしば角の生えた牛や羊(またはレイヨウ、ヤギ、シカ)の姿で現されたのです。
地球の歳差運動(地軸に対してまっすぐではなく、こまのようにわずかにぶれた回転運動)により、天の黄道(一年をかけて太陽が天空の星座内を移動する軌道)は一年ごとに少しずつずれていき、2万5920年(つまり2万5920回地球が公転して)かけて一周します。古くは一年の始まりであった春分点の太陽の位置は、現在(1989年以降)では宝瓶宮(みずがめ座)に入っている(太陽の背後にみずがめ座がある)のですが、黄道12宮に太陽が入っている期間はそれぞれ2160年で、宝瓶宮に太陽が入る前は2160年続く双魚宮(うお座)の時代、さらにその前は白羊宮、そして、人類が原始社会から本格的な文明社会に突入し、メソポタミアやエジプトに花開いた時代の春分点は金牛宮(おうし座)でした。ですから古代文明で信仰され、神聖視された神の姿は、多くの場合雄牛の姿となったのです(モーセの時代はおひつじ座の時代になっていましたから、モーセの角は多くの場合、レイヨウのようなまっすぐの角で表されます)。双魚宮の時代(B.C.170年ごろ~)に入るとキリスト教が発生し、世界宗教へと成長していきます。そうした中で、古い時代の神々の姿(牡牛や牡羊)は、悪魔、または鬼のかたちと重なり、排斥され、恐怖の対象へと変化していったのです。
牛頭天王も、遠い古代にその起源をもち、遠い昔極東の日本に伝わり、世界中から牛神の信仰が消し去られる中、日本でのみは長く中世、近世、近代を通じて民衆に厚く信仰され、庶民の守り神として慕われてきたのではないでしょうか?古来庶民は、抑圧され、貧困にあえぐ生活の中で、ときに現れる彼らの盾となり、圧制者と対峙した人物を崇拝しました。権力者に対抗するそうした英傑のほとんどは敗れ去り、殺されるわけですが、殺されることで彼らは民衆の中で神となります。それは権力者側にとっては鬼であり怨霊となるのですが、牛の角を生やした巨人の姿で描かれる牛頭天王は、まさに鬼そのものです。
有名どころの京都祇園会や博多山笠もいいのですが、お住まいのお近くの祇園祭に、古き神・牛頭天王に会いにお出かけしてみてはいかがでしょうか。
参照
日本古典文学大系「風土記」 (秋本吉郎・校注 岩波書店)
祇園牛頭天王御縁起
牛頭天王之祭文
全国の祇園祭・天王祭
八坂神社
成田山祇園会