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今日5月16日は「旅の日」。「ともすれば忘れがちな旅の心を、そして旅人とは何かという思索をあらためて問いかけること」を目的に、「日本旅のペンクラブ」が提唱して1988年に誕生しました。
1689年のこの日(陰暦元禄2年3月27日)、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で知られる東北・北陸を巡る150日間に及ぶ旅に出ました。漂泊の俳人といわれる芭蕉の旅中の句から、その人生観を紐解いてみましょう。
松尾芭蕉(1644年・陰暦寛永21〜1694年11月28日・陰暦元禄7年10月12日)は、江戸時代元禄文化期の俳人。三重県上野市(現在の伊賀市)に生まれ、江戸の街で俳諧師として成功を収めるものの、46歳の時に「芭蕉庵」といわれた深川の草庵を捨てて旅に出ます。江戸から東北、北陸をめぐり、岐阜の大垣で終着を迎える約2400キロにのぼる道程でした。当時としてはかなりの高齢、しかも持病を抱えた身でありながら、1日に平均して数10キロも歩いた計算になります。出身が伊賀であることも影響して、「芭蕉忍者説」が浮上。こちらも歴史ロマンとして興味深いですね。
この旅から生まれた『おくのほそ道』(1702年・元禄15年)は、俳諧集と思われがちですが、日本の古典における紀行文の代表的存在。作品中に50を超える俳諧が詠み込まれる体裁になっています。冒頭には、古代中国・唐の詩人李白や杜甫、敬愛する西行を念頭においた、芭蕉の人生観を凝縮する味わい深い文章が綴られています。
「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。」
有名な書き出しからはじまる『おくのほそ道』。この一文に、芭蕉の人生観が込められているといっても過言ではありません。
時は永遠の旅人であり、人生は旅そのものである、と芭蕉はいいます。人生の真の意味をつかむために、草庵を後にして旅に出たのです。目指したのは、西行が500年前に訪れた奥州平泉をはじめとしたみちのくでした。同行したのは門人の河合曾良。彼は蕉門十哲の一人とされ、詳細な記録を描写した覚書『曾良旅日記』を著し、『おくのほそ道』研究の重要な資料となっています。
芭蕉は、江戸を出発してから44日目の6月22日(陰暦5月13日)に平泉に入ります。11世紀末から12世紀にかけて栄華を極めた奥州藤原氏が滅び、源頼朝に追われた義経が最期を迎えた場所でもあります。西行が2度目に訪れたのもこの頃でした。
夏草や兵どもが夢の跡
草むらと化したかつての戦場に佇んだ芭蕉は、500年前の藤原一族の滅亡と義経の最期を想います。『おくのほそ道』には、杜甫の「国破れて山河在り 城春にして草木深し」のとおりだと時を忘れて悲劇を思い涙を流した、と記されています。
藤原氏三代の棺が納められた中尊寺金色堂では、草むらと化することなく往時を偲ばせる金色の輝きに目を奪われます。
五月雨の降り残してや光堂
すべてを朽ち果てさせるような五月雨も、光堂だけは避けて降ったのだろうか。
「五月雨」に500年間の風雨の意味を込め、変わらぬ黄金の輝きを想起させる「光」に藤原三代を慰霊する想いが込められています。
芭蕉は、平泉で鎮魂歌といえる2つの句を残しました。藤原氏への弔いと西行の足跡を辿るこの地は、みちのくの旅最大の目的地だったのではないでしょうか。
平泉を発った芭蕉は、出羽三山、新潟、金沢などを経て、8月下旬についに旅の終点、岐阜県の大垣に到着しました。その後、芭蕉は5年をかけて『おくのほそ道』を完成させます。しかし、この直後に病にかかり大阪で客死、51年の生涯を閉じました。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉はこの句を詠んだ4日後に世を去ります。九州に向かう旅の途上でした。辞世の句といわれますが、死よりも生への意識が勝っているようにも感じられます。芭蕉の漂泊の魂は、めぐる時のなかで永遠の旅に出たのですね。
「日本旅のペンクラブ」は、会長は西行、副会長は松尾芭蕉というのが設立当初からの申し送りだそうです。西行と芭蕉、時空を超えて終わりなき旅へ。
参考文献
ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 /松尾芭蕉『おくのほそ道(全)』角川書店 2016
参考サイト
日本旅のペンクラブ