5月6日より二十四節気「立夏」。暦上はこの日から立秋前の節分までが「夏」となります。夏の始まりに思い出す歌の定番の一つといえば、「夏は来ぬ」ではないでしょうか。「みんなの歌」やCMソングともなり、現代でも有名な唱歌。この歌には、日本の古典のエッセンスが重箱のおかずのように詰まっています。

新元号「令和」の典拠が万葉集だということで、世間は万葉集ブームですが、古典・和歌への関心が高まっている今こそ、「夏は来ぬ」の歌詞の意味をひもとき、作詞者の思いに迫ってみましょう。


唱歌の夏フェスナンバー?「夏は来ぬ」

「夏は来ぬ」が世に出たのは、明治29(1896)年の、まさに初夏5月。小山作之助作曲のメロディーに、佐佐木信綱が依頼を受けて完成されました。作詞者の佐佐木信綱は、日本最古の和歌集「万葉集」の研究者として著名な国文学研究者であり、歌人、作詞家。第二次大戦時、兵士たちが各々の胸ポケットに携えて戦地に赴いたことで名高い岩波文庫の「新訓萬葉集」の編者です。



卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて

忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

五月雨(さみだれ)のそそぐ山田に 早乙女が裳裾(もすそ)ぬらして

玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の薫る軒端の 窓近く蛍飛びかい

おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝(おうち)散る川べの宿の門(かど)遠く水鶏(くいな)声して

夕月すずしき 夏は来ぬ

皐月闇 蛍飛びかい 水鶏鳴き 卯の花咲きて

早苗植えわたす 夏は来ぬ



5番まである各章の締めに「夏は来ぬ」と5度もリフレインする、唱歌としてはちょっと変わった構成になっています。

そして、ウツギ(卯の花)、橘、蛍、センダン(楝 おうち)、クイナ、と夏の和歌のスターがそろい踏みします。わけてもホトトギスさんは奈良~平安期の歌人たちには圧倒的な人気を誇り、万葉集、古今集には野鳥の中でもっとも頻繁に登場するスーパースターです。曲調も明るく高らかで、夏が来たぞと高揚した気分を歌っていて、さながら夏フェスのような、にぎやかでアゲアゲのテンションです。

でもこの歌は、そんなノリのみで作られたものではありません。よく読み返すと、歌詞には随所に無理や齟齬があり、作詞者がこめた意味が見えてきます。


「夏」とは言っても各章時期はばらばら。その意味するものは

一番で登場するのは卯の花(ウツギ)と時鳥(ホトトギス)。

卯の花=ウツギ(空木 Deutzia crenata)は、ユキノシタ科ウツギ属の落葉低木で、全国の山野に普通に自生します。まぶしく輝く小さな真っ白な花は、まさに初夏の象徴。旧暦四月(新暦の4月下旬から6月上旬頃。おおむね今の5月ごろ)のことを卯月と言いますが、その名も卯の花から来ているといわれ、この季節を代表する木の花です。

一方ホトトギス(時鳥 杜鵑 子規 不如帰 郭公 霍公鳥  Cuculus poliocephalus)は、カッコウ目・カッコウ科の夏の渡り鳥。インドや中国南部で越冬し、日本列島に5月中旬ごろに到着し、鳴き声が聞かれるのは下旬ごろからになります。平安時代になるとホトトギスは旧暦皐月(新暦の5月下旬から7月上旬ごろ)から啼く鳥とされ、卯月の期間中の囀りは季節はずれの「忍び音」とされました(かくれてひっそり鳴く、という意味ではありません)。歌詞一番の情景は卯月、立夏のちょうど今頃を謳っていることが分かります。

ところが、二番になると急に時期がずれます。五月雨(さみだれ)とは、梅雨の雨のこと。今で言うと6月になってしまいます。

三番では、橘(ヤマトタチバナ  Citrus tachibana)と蛍が登場します。ヤマトタチバナの花期、そしてホタルがゲンジボタルだとすると、時期は5月末から6月。

四番では楝つまりセンダンの花が散り、夏鳥の水鶏(古典和歌の世界でのクイナは、今で言うヒクイナのこと。)が鳴くと謳われます。センダン(栴檀  Melia azedarach)は、センダン科センダン属の落葉高木で、現代人にはあまり親しみはないかもしれませんが、かつては大変愛でられた植物で、今でも庭木に植えられ、5~6月ごろには薄紫の花を見ることが出来ます。この花が散るということですから、早くとも6月が妥当でしょう。新元号で一気に有名になった大伴旅人が妻に先立たれ、悲嘆にくれているときに友人の山上憶良が送った鎮魂歌。

妹が見し 楝の花は散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに (山上憶良 巻五 798)

この歌が詠まれたのは神亀5年(728)の旧暦6月23日。もはや晩夏の新暦8月7日にあたります。

まとめますと、一番は今で言う5月初旬から下旬、二、四番は6月の入梅以降、三番はその間くらいの5月末から6月ごろを歌っていることになります。かなり時期的ズレのある歌詞だ、ということがわかるかと思います。この不自然さは、佐佐木が一番から四番それぞれに古典文学を元にあえて作詞しているためです。今で言うカヴァーアレンジといったところ。


和歌の心「夏のあくがれ」こそが歌のテーマ

まず一番は、万葉集の定番の組み合わせ「ウツギとホトトギス」から。

卯の花の 咲き散る岳(おか)ゆ 霍公鳥  鳴きてさ渡る 君は聞きつや (読人不知 巻十 1976)

五月山 卯の花月夜ほととぎす 聞けども飽かずまた鳴かぬかも (読人不知 巻十 1953)

卯の花の 過ぎば惜しみかほととぎす 雨間も措かず こゆ喧き渡る (大伴家持 巻八 1491)

卯の花とホトトギスのコラボは万葉集中15首もあります。夏の早い曙も待たずに暗い空にエコーがかかって啼きわたるホトトギスの、何かを訴えているような物悲しく切迫したさえずりを、王朝人は愛する人を恋い慕うエレジー(哀歌)として聞きました。また海を越えて渡ってくるこの鳥の声を、あの世から帰ってきたなつかしい死者の魂の声としても聞きました。

卯月(旧暦四月)から咲く卯の花は、ホトトギスの到着と入れ替わるように散り始めます。この両者の短いセッションを、恋人とのわずかな時間の逢瀬の喜びと別れの切なさ、あるいはあの世とのあえかな交信の儚さにも仮託し、セットで謳われたのです。

二番は、「栄華物語」御裳着(みもぎ)巻の古歌から。

五月雨に 裳裾濡らして 植うる田を 君が千歳の みまくさにせむ

三番は漢籍の「晋書/車胤伝」の「車胤聚蛍」(しゃいんしゅうけい)、ホタルの火を集めて勉学に励んだ車胤のエピソード「夏月則練囊盛數十螢火以照書」が下敷きですが、そこに橘をからめています。橘には過ぎし日・なつかしい人を思い出す、という和歌の符丁があります。思い出す面影は若き日の恩師でしょうか。

四番は、源氏物語(紫式部)の「第十一帖・花散里」と「第十四帖・澪標」から。

橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ(第十一帖)

水鶏だにおどろかさずはいかにして 荒れたる宿に月を入れまし(第十四帖)

光源氏の妻の一人、麗景殿女御の妹の三の君・花散里「夏の御方」の住まいを「楝散る川べの宿」となぞらえています。

各章に通呈するのは、なつかしい過ぎし日/人を思い出し、愛惜する情緒。それがホトトギスの声や卯の花、橘、センダンなどの生き物たちに仮託されています。過ぎ去ったものへの愛惜と、今と未来に向けての前向きな希望が響きあい、ない交ぜになった独特の感覚。これを古語では「あくがれ」今の言葉では「憧れ」と表現してみます。「あくがれ」=憧れとは、「本来あるべき所から離れて、心や魂がさまよう」ことを言います。日々の生活の場、やるべき雑事から遠く離れた、過去、理想、会いたい者に思いをはせる和歌の心。

「出典が何か分かるかな?」というちょっと上目線の謎掛けと、これほどの風情のある夏をもつこの国の自然と、それを情緒豊かに歌った古人の文化を大事にせえよ君たち、というメッセージこそ、佐佐木の熱い思いだったのではないでしょうか?

効率のみが重視され、「わかりやすいワンフレーズ」がもてはやされる傾向がますますつのっています。そして文学部(文学・史学・哲学など)の軽視はますます拍車がかかっています。言葉をつくし、表現の妙を尊ぶ。それにより異質な者同士がわかりあうことが出来、多様性に富む寛容な社会につながる。それこそが「文化」「道徳」の真髄ではないでしょうか。新しい時代が「やおろず(万)の言葉(葉)」にあやかるのなら、是非その名にふさわしい、言葉の豊かな時代になってほしいと思います。

参照

新訓萬葉集 (佐佐木信綱 岩波文庫)

『万葉集』に見られる大正・昭和初期の日本人論 (アルザス日欧知的交流事業日本研究セミナー「大正/戦前」報告書 フォンリュブケ留奈子/VON LUEBKE Runako)

車胤伝

情報提供元: tenki.jpサプリ
記事名:「 二十四節気「立夏」。唱歌「夏は来ぬ」にこめられた心とは?