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「桃始笑」は、宝暦の改暦から採用され、先立つ貞享暦の七十二候では啓蟄次候は「寒雨間熟(かんうしばしあつし)」、冬の氷雨が暖かい春の雨に変わり始める頃としています。そして貞享暦では桃を、春分の末候(3月30日頃から)に「桜始開桃始笑(さくらはじめてひらきももはじめてわらう)」として、やや詰め込み気味に入れ込んでいます。季節的には貞享暦のほうが実態に即していますし、渋川春海らしい正確さだといえますが、いかにも強引でやや異様なため目を引きます。桜と並べて桃を無理めに挿入したのには事情がありました。
本朝七十二候には、元祖中国の宣明暦にはないある仕掛けが施されています。五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)に関わる代表的な植物をひとつずつ、七十二候の中にはめ込んだのです。人日(一月七日)の節句というと七草粥。その筆頭にあるセリが「芹乃栄(せりすなわちさかう)」に、上巳(桃の節句)からは桃が「桜始開桃始笑」「桃始笑」として。端午の節句は菖蒲湯の風習から「菖蒲華(あやめはなさく)」がありますね。七夕の節句は七夕飾りの竹が「竹笋生(たけのこしょうず)」。重陽(菊の節句)の節句からは菊が「菊花開(きくのはなひらく)」。江戸初期、江戸幕府が五節句を大切な日として祝うように御触れを出したことで、貞享暦編纂者・渋川春海が知恵を絞って入れたのでしょう(ちなみに中国の七十二候では、五節句の植物のうち二つしか入っていません)。こういう細やかでマニアックなこだわりはいかにも日本人らしく、昔から日本人気質って変わらないのだなあと楽しくなりませんか?
節句と暦の話になりましたので、このところ各所で混乱した記載が見られる伝統的な風習と現代の暦の関係、新暦と旧暦のちがいなどについて、あらためて整理してみたいと思います。
ご存知のとおり、明治政府が西欧諸国に倣い新暦(グレゴリオ暦)を採用するまで、日本では旧暦と呼ばれる別の暦を使っていました。月の満ち欠け(朔望)を暦の基本とした太陰暦、というように説明されている場合もありますが、より正確には日付け、日取りは太陰暦ですが、それを調整する太陽暦に基づく暦日が設けられ、これを目安として使う「太陽太陰暦」でした。
五節句は陰暦の日づけに添って設定された固定祝日(ただし、古来は上巳は3月の最初の巳の日、端午は5月の最初の午の日でした)ですので、太陽の運行を基にした七十二候とはずれが生じることもあるため、七十二候の中で五節句の時期ににぴたりとあてはまる場所に五つの植物を配置することはできていません。端午の菖蒲と七夕の竹とは、順番すら逆になっています。旧暦の日付けをそのまま新暦の日付に機械的に移植した五節句は、旧暦の時代とずれが生じ、特に七夕などは、本来は夏の晴天の頃であったのに、新暦になってからは梅雨の真っ只中になってしまい、毎年雨で彦星と織姫は会えずじまいなんてことも起きていますよね。
このような伝統的な風習と現代生活様式とのずれ、混乱は、たとえば旧正月についても勘違いが起きています。さる2月はいわゆる「春節」で、中国や台湾など東アジアの諸国で派手に「新年」が祝われました。新暦の正月が盛大に祝われる日本はアジアでは例外で、他のアジア諸国では春節こそが旧暦の正月なのだ、と盛んに説明されています。そのためか立春の日が昔の正月で、節分が大晦日に当たる、と勘違いしている人も多く、またそのように説明しているメディアもあったりします。でもこれは間違いです。先述したとおり旧暦の日付け取りは月の満ち欠けと合致しており、各月の一日(朔日)は必ず新月になります。正月は、立春にもっとも近い(立春前でも立春後でも)新月の日が一月朔日、つまり元旦になります。
月の満ち欠けの周期(新月から次の新月まで)の平均は29.53日で、長いときは29.8日、短いときは29.3日になります。このため、陰暦では一ヶ月の日にちに30日(大の月)と29日(小の月)を設定して、調節します。しかしこれでも問題が出てきます。季節、つまり気温や気候自体は、北回帰線と南回帰線の間で移動する太陽によって決まってきますが、この太陽の周期は約365日。陰暦の暦では一年(12ヶ月)は354日で、11日短くなります。そこで調節のために三年に一度閏月が設けられました。ということは、太陰暦ですと、その年により季節の移り変わりはかなり前後していて、閏月のある年はほとんど一ヶ月ずれてしまっていました。だからこそ、季節変化と合致した不変の二十四節気や雑節が重要視されたのです。二十四節気(それをさらに三分割した七十二候も)は、夏至と冬至、そして春分と秋分を基本軸にした太陽暦で、雑節もその二十四節気をもとにして設定されます。ご存知節分は四立(立春・立夏・立秋・立冬)の前日。お彼岸は春分と秋分の日の前後七日間。八十八夜は立春から八十八日目。土用は立春、立夏、立秋、立冬の前18日間。その他にも社日、半夏生、二百十日など、いくつもの雑節が設けられ、農作業などの労働の目安として重要視されました。
ともすれば正月や盂蘭盆など、新暦と旧暦がずれるのがお決まりだと勘違いをされがちですが、雑節や二十四節気はそのまま新暦と一致して使用できるものなのです。逆に言うとだからこそ、これらはかつてのように人々の生活に必要不可欠なものではなくなったために廃れてしまった、といえるでしょう。何にせよ、一般的にはたとえばひな祭りとお彼岸と土用の丑とお盆は、同じ昔からの風習と思い込まれているので、ひな祭りとお盆は昔と今ではずれてるけど、お彼岸と土用はズレてないなんて、確かにややこしいですよね。
桃に話を戻しましょう。モモ(Amygdalus persica)はバラ科モモ属の落葉小高木。モモを「もも」と呼ぶのは、和語系数詞(いち、に、さん、し、ご…と数える漢語系数詞ではなくひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ…と数える日本古来の数え方)で百のことを「もも」「ももつ」と呼びます。鈴なりにたくさんの実がなるさまから「もも」と名づけられたとする説があります。もっとも、他にも鈴なりに実がなる木は多くありますし、なぜモモが「もも(百)の木」として選ばれたのか説明がつかないように感じますが・・・。
古代中国では4000年以上前の先史時代から今の甘粛省(かんしゅくしょう)や陝西省(せんせいしょう)の付近で栽培されていたことがわかっています。古くから陽気に満ちた神仙の食べ物といわれ、「神農本草経」(2~3世紀)には、モモの核、花、実、また枝で作った人形や杖などが、破邪・悪鬼払いの魔力があると記述されています。明代に成立した幻想活劇「西遊記」の中でも、モモは孫悟空が食べて不老不死となる天宮の蟠桃園の桃として登場します。この蟠桃園には三千六百本のモモの木が植えられ、入ってもっとも手前の千二百本は三千年に一度実り、実を食べると無病の仙人となれる。その奥の千二百は六千年に一度実り、食べると体は年老いることなく不老となる。もっとも奥に生える千二百本は九千年に一度実り、食べると天地日月と齢を同じとする=不死となる、というもの。この蟠桃園のモモは、蟠桃(ばんとう)として知られるモモである、といわれています。バントウ(var. platycarpa)は、押しつぶしたような扁平なモモで、座禅桃、平桃などの別名もあります。栽培も難しく日持ちも悪いのですが、味は濃厚で果肉がきめ細かで美味しく、最近ではドーナツピーチ、フラットピーチなどの名で、ヨーロッパのスペインなどでも栽培されています。日本では、福島県や和歌山県でわずかに生産されていて、「楊貴妃」という名で流通しているようです。
大陸産のモモが日本に渡来してきたのは弥生時代後期ごろといわれ、この時代からモモのタネが遺跡から各地で出土しますが、それ以前にも小型の在来種があったようです。渡来したモモは、食べることよりも魔よけのために使われていたようで、法隆寺金堂の柱の上部にうがたれた窪みに、モモの核が40個収納されていたのが発見されたり、中世の水堀、水路、井戸などの水溝遺跡からモモの種子が発見されています。悪鬼の侵入を防いだり、童話「桃太郎」の冒頭で、モモが川を流れてくるのも、モモに水を腐敗や悪い気から守り浄化するという信仰があり、実際にモモを種子を水に沈めたり、モモの実を川に流す風習があったためだろうと考えられます。
江戸時代の元禄期頃になると花の美しさから、花を観賞するための「花桃」の園芸品種が登場します。立性系品種では一株に赤白の八重咲きをする「源平」、ひな祭りで室内に飾る切花の定番で八重咲きピンクの「矢口」、花弁がキクの花のように細かく切れ込んだ「菊」、矮性品種の「寿星桃(あめんどう)」、タネから一~二年で開花する一才物品種、豪華な枝垂れ系品種などバリエーションも多く、現代でも庭園や公園、街路樹としてさまざな桃の品種が植栽されています。
モモが食用のフルーツとして一般的に食べられるようになったのは二十世紀に入ってから。近年では各地にモモの木を多く植えて観光地化している地域もありますが、モモは樹齢が15~20年と短い上に忌地(いやち)を起こしやすく、桃園の名所や産地も、変遷が激しい傾向があります。現代では山梨、福島、長野などが産地として知られていますが、もしかしたらその産地も移動することになるかもしれません。
参照
植物の世界 (朝日新聞社)