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雨情が生まれたのは、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市磯原町)。野口家は楠木正季氏の流れを汲む家柄と伝えられ、雨情も、「わが家の祖先は南朝の遺臣と祖父から言い聞かされた」と語っています。磯原海岸を望む地に建つ実家は、廻船業の素封家。雨情は「私は旅で磯の匂いを嗅ぎますと、いつも故郷へ帰ったようななつかしい気持ちになります。」と記しましたが、時代は次第に陸運が主流となり、家業は厳しい状態となって行きます。
雨情は東京専門学校(現:早稲田大学)で坪内逍遥の薫陶を受けつつも、一年で中退。詩集<枯草>を自費出版したのち、彷徨の日々を送ります。北海道や樺太にわたり、小樽で新聞記者として勤めたときには、短い間でしたが石川啄木とも交友を結びました。啄木から聞いたエピソードが、童謡「赤い靴」に結実した話は有名ですね。
雨情は26歳のとき、北海道を離れ東京に戻りますが、母の死を契機にふたたび帰郷します。雌伏して10年後の1919(大正8)年、ついに機が熟し、詩壇に再登場。以降、国学者本居宣長の子孫の本居長世や中山晋平と組み、童謡雑誌「金の船」から、名作を次々と発表してゆきます。
その間も雨情は、自ら童謡や新民謡(創作民謡)のほか、新仏教音楽の普及や啓蒙にも尽力。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作し、また童謡論も盛んに発表します。童謡とはどうあるべきか、教育の中で童謡は何を示すべきかを、常に熱心に考えた人だったのです。
雨情の童謡論は、現代にも鋭い課題を投げかけています。雨情は、童謡とは童心性の表現であり、童心こそは先天的に与えられた、人間性の最も正しき心、無垢な心であると語りました。童心とは子供のみならず私たち成人にも存在するが、子供の自由画のように、童心から発するものこそに永遠性が宿ると云うのです。
童謡とは日本の郷土の自然から生まれるべきで、やがては児童たちの、心の公園のような存在にすべきである。大戦に至る時代背景の中、雨情はそんなふうに、児童の情操を育てることに心を砕いていたのでした。
雨情は、童謡をもって「日本人の魂となる、棲みよい楽しい国」作りに貢献したかったのです。雨情が手がけた童謡が時代を経ても色褪せず歌い継がれているのは、その思いが唄の心に結集されているからでしょう。
それでは、雨情忌に寄せられた句を最後にご紹介します。
・雨情忌の詩碑に白菜供へあり
〈西本一都〉
・母も子も赤き靴はき雨情の忌
〈黒岩保行〉
・雨情忌や村の小学校もピアノある
〈川崎南枝女〉
・雨情忌やくちなしの実の小さき壷
〈池上樵人〉
・荒磯の飛沫に濡れて雨情の忌
〈福田貴志〉
※参考:北茨城市の野口雨情記念館は大規模改修工事のため、平成31年3月31日まで休館中
【句の引用と参考文献】
『ザ・俳句十万人歳時記 〈冬〉』(第三書館)
野口雨情(著) 野口存彌 (編)『野口雨情―郷愁の詩とわが生涯の真実』(日本図書センター)
野口不二子(著)『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝 』(講談社)
金子未佳 (著) 『野口雨情―人と文学』(勉誠出版)