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日本画家・川端龍子の絵の魅力はなんといっても大画面! 展示会場に入ると壁いっぱいに架けられた大きな絵がずらりと並びます。勢いのある筆致と繊細な線で描かれる作品は、古典的な題材も画家の目を通すと、今を生きる私たちにも時を同じくしているような感覚にさせてくれます。
龍子は西洋画を学び渡米しますが、ボストンで日本画の素晴らしさを実感し日本画に転向します。龍子がめざした絵は床の間に飾る日本画ではなく「会場芸術」という大勢の人が展覧会場で作品を見ながら今の時代を語りあうといったものでした。皆が関心を寄せる社会問題を題材に選んだ作品が数多くあり、龍子の生きた時代を感じることができます。
龍子は自分の作品を鑑賞してもらうならこういう場所がいいんだ、という強い希望がありました。それを叶えるため自宅の前に美術館を建てました。それがこの記念館です。龍子の思い入れのつまった展覧室は天井が高く、障子をめぐらした自然光が穏やかな空間をつくっています。木々に囲まれた自宅は龍子公園として見学が可能です。龍子が自ら設計したアトリエは竹と木を組み合わせた大変凝った作り。大きなガラス戸越しに広いアトリエを見ることができます。
明治に生まれ大正・昭和と日本画壇に新風を吹き込んだ龍子の気骨を感じることができる場所といえるでしょう。
参考:龍子記念館へは下のHPを参照して下さい。
鎌倉駅から小町通りへ。老若男女、いえやっぱり若い人が多い! 外国の方もたくさん来ています。そこを歩くこと10分弱、細い道をはいるとそれまでの喧騒が嘘のように遠のき静かな住宅街に。鏑木清方記念美術館は和風建築の穏やかな世界を醸しています。
山を背に海に向かってひらけている鎌倉は、源頼朝が幕府を開き日本にとって重要な地になりました。明治・大正と自然豊かで温暖な気候は多くの文化人の別荘地として人気を博しました。鏑木清方は戦後1946年70歳を前に鎌倉材木座に居を移し、8年後にここ雪の下に移り93歳で亡くなるまで過ごしました。静けさだけでなく人々のざわめきもまた清方は好きだったのでしょう。庶民生活を描いた絵をたくさん残しています。平成にはいり自宅が改装され今の美術館となっています。館内にはかつてのアトリエが再現され、展覧室では清方のさまざまな作品を見ることができます。
清方といえば美しい女性の絵が思い浮かびます。江戸時代の浮世絵とは違う女性の粋な美しさは、私たちが見ても思わずため息がでてしまう情趣にあふれています。美人画で有名な伊東深水が清方の門下なのは頷けますね。
清方の画業の始まりは挿絵でした。泉鏡花と樋口一葉の作品を愛し作品の挿絵も描いています。鏡花とは出会ってすぐに意気投合し、互いに理解し話し合いながら清方は鏡花の作品に絵をつけていったということです。画家の熱意は作家にも大きな影響をあたえていくのですね。
展示は何も知識がない人にでも、見て回るだけで清方の世界をわかりやすく伝えてくれています。
参考:清方記念美術館へは下のHPを参照して下さい。
横浜、元町・中華街からバスで20分ほど、本牧三の谷に自然の景観をいかした三渓園の庭が広がります。広さはよく東京ドーム何個分と表されますが、およそ4個分ということです。広さの想像がつきますか? なにより行ってみて体感してください。
園内には三渓が自宅として建てた鶴翔閣、晩年に夫婦で暮らした白雲邸といった大正年間の建築の他に、8代将軍徳川吉宗が幼い頃育った巌出御殿が臨春閣としてここに移築されています。他にも秀吉ゆかりのお堂や家康、家光が建てたものなど16、17世紀の建築が園内に配されており、ハイキング気分でひとつひとつ楽しむことができます。
原三渓は江戸から明治に移る1868年に岐阜で生まれました。長じて原家に婿として入り、生糸の輸出など実業家として成功します。一方三渓は美術に造詣がふかく収集家でもありました。古美術と近代日本美術のコレクターであり、新進画家のパトロンとして美術界に貢献しています。本人も絵筆をふるう文人であり茶人でもありました。三渓宅に滞在して制作に励んだ画家には下山観山、前田青邨といった日本画の大家がいます。三渓ゆかりの作家の作品は園内の記念館で見ることができます。
三渓がすごい! と思うのはこのように素敵な庭園を作りながら一般の人に無料開放していることです。1906年、明治39年のことです。素晴らしいものはみんなで楽しみましょう、という三渓の声が聞こえるような気がします。1923年に起きた関東大震災で瓦礫と化してしまった横浜の復興を先頭立って実行した人でもあります。
三渓さんの心意気を今に伝える三渓園は、建築と庭園そして美術も楽しめる場所。冬の晴れた日は素敵な散歩が楽しめそうですよ。
参考:三渓園へは下のHPを参照して下さい。