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踊念仏は後世に継がれて、瓢簞を叩き念仏を唱えて踊る「鉢叩(はちたたき)」として、歳末の都の風物詩となりました。江戸時代には、芭蕉も弟子たちとともに、鉢叩を楽しんでいます。そんな空也上人を巡るあれこれをご紹介します。
六波羅蜜寺の寺伝によれば、空也上人は醍醐天皇の第二皇子とされています。しかし、自身では父母や郷里について一切語らず著作も残さなかったため、詳しい経歴は不明です。若い頃から、ひたすら諸国を巡り苦修練行しながら、道を修復し、橋を造り、井戸を掘り、病人や貧者に施しをなし、野に捨てられた屍があれば、阿弥陀念仏で供養していたといいます。
ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし
空也上人が市の門に書き付けたという歌が、『拾遺和歌集』に残されています。ひとたび南無阿弥陀仏と唱えたならば、あの世で仏様が乗るという蓮の葉の上に座らないということはない、必ず極楽往生する、という意味です。当時は庶民のほとんどが、文盲だった時代。難解なお経を読むことや、僧として修行に専念することができない人々には、ひとすじの光明となったことでしょう。十世紀半ばという時代に、それまで権力者や知識階級の宗教であった仏教を、一般庶民に開いた空也上人。その功績は、宗教の革新者と言えるほどに画期的なことでした。
さて、空也が始めた踊念仏は、いわゆる「空也念仏」「空也和讃」「鉢叩」として受け継がれていきます。念仏の功徳で極楽往生が決定した喜びを表して、瓢箪・鉢・鉦(かね)などを叩きながら、節をつけて和讃(わさん)と勧進を唱え踊り歩きます。和讃とは、日本語による仏教賛歌のこと。江戸時代には、旧暦11月13日の空也忌から大晦日までの48日間、京都の空也堂の行者が、空也念仏を唱え踊りながら、洛中洛外を巡りました。
人家を回る、門付け芸的な要素も帯びた鉢叩。芭蕉は、弟子で蕉門十哲の一人、京都の向井去来の家にわざわざ泊まり込んで、鉢叩を楽しみました。彼らの記録から、お楽しみ気分が伝わります。
・長嘯(ちょうしょう)の墓もめぐるかはち叩き
〈芭蕉〉
・箒こせまねてもみせん鉢叩
〈去来〉
「明け方にやっと鉢叩が来た。さては木下長嘯子の墓まで巡っていたのだろうか、待ち侘びたぞ。」芭蕉はボヤきつつも、ワクワク気分を隠せません。長嘯子とは江戸初期の歌人で、北の政所の甥っ子の若狭小浜城主のことです。弟子の去来は同じ夜に、「箒をよこしてください、鉢叩が来ないなら私が真似てみせましょう」と、師匠をなだめているのです。なんとも微笑ましい光景ですが、そんな芭蕉の意を汲んだのか、十哲たちは、優れた鉢叩の句を揃えました。その一部をご紹介します。
・千鳥たつ加茂川こえて鉢たゝき
〈其角〉
・今少し年寄見たし鉢たゝき
〈嵐雪〉
・月雪や鉢たゝき名は甚之丞
〈越人〉
・嫁入の門も過ぎけり鉢たたき
〈許六〉
・一月はわれに米かせはちたゝき
〈丈草〉
・鉢たゝき昼は浮世の茶筅売
〈支考〉
・ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき
〈桃隣〉
角の杖をついて鉦を叩いて歩く乞食僧の如くの空也上人像は、口から小さな六体の仏が出ています。それが南無阿弥陀仏、六つの名号なのです。六波羅蜜寺蔵のものが有名ですが、画像は月輪寺の空也上人像と思われます。
晩年に奥州へ旅立つ時に、「本日、寺を出づる日を命日とせよ」と弟子たちに命じたという空也忌。民衆の救済に身を尽くした空也上人の忌日には、ちょうど立冬後の日毎に寒さが強まる気候がふさわしく、現代でもたくさんの句が残されています。遠い時代の人物なれど、貴賎を問わず多くの人々に慕われ、語り継がれてきた証なのでしょう。
・木の葉みな枝をはなれて空也の忌
〈鷲谷七菜子〉
・空也忌の路地に薄日の来ておりし
〈塚原哲〉
・空也忌の魚板の月ぞまどかなる
〈飯田蛇笏〉
・空也忌の十三夜月端山より
〈飯田龍太〉
・今の世に市聖なし空也の忌
〈森澄雄〉
・空也忌の木を伐る虚空抜けにけり
〈森澄雄〉
【句の引用と参考文献】
『新日本大歳時記 カラー版 冬』(講談社)
『カラー図説 日本大歳時記 冬』(講談社)
『読んでわかる俳句 日本の歳時記 冬・新年』(小学館)
川崎 純性 (著) 高城 修三 (著) 『新版 古寺巡礼京都〈5〉六波羅蜜寺』(淡交社)