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あの試合で力投した高校球児の進路が、先日行われたドラフト会議で決定しました。さらなる活躍を日本中が期待していることでしょう。
そして、ひと雨ごとに朝晩の気温が下がっていく中、着実に秋が深まりつあります。紅葉を愛で、美味しいものに舌鼓を打ち、レジャーを楽しむ……。したいことがたくさんある秋は、一年の中でも欲張りな季節といえますが、今回は秋たけなわの詩歌をご紹介しましょう。
俳句の季語は、季節の変化に伴う人間の皮膚感覚に敏感です。
この季節の季語の筆頭は「冷ややか」です。漱石や安住敦の句は自分が寒いと言っているわけではありませんが、あたりの空気がやや冷たく感じられる瞬間を捉えています。
〈冷ややかや人寐(ね)静まり水の音〉夏目漱石
〈冷ややかに壺をおきたり何も挿さず〉安住敦
「やや寒」「朝寒」「身に入(し)む」といった言葉もあります。蕪村の次の句は有名でしょう。ほのかなエロスを感じさせるところも蕪村ならではです。「閨(ねや)」とは寝室のこと。虚子の句は「漸寒」の文字を使って古びた城下町の雰囲気を描写しています。寒く感じられるようになった秋の朝はまるで旅の宿で目覚めた気がする、という島田青峰の句も実感がありますね。
〈野ざらしを心に風のしむ身かな〉松尾芭蕉
〈身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む〉与謝蕪村
〈漸寒や一万石の城下町〉高浜虚子
〈身にしむやほろりとさめし庭の風〉室生犀星
朝晩の気温が低くなってきて、秋が深まると何か聞こえてくる物音も違って感じられるようになります。虫の声は典型的な「秋の音」です。
〈松虫といふ美しき虫飼はれ〉後藤夜半
〈水道栓漏るを漏らしめ秋深し〉石塚友二
石塚友二の句は、水道からポツンポツンと水が漏れている音が聞こえてくるけれど、そのままにしてその音を聞いているのだ、という句です。俳句の音数の少なさが、秋の冷えた空気によくあっています。
ところで、俳句には不思議な季語がときどき使われます。そのうちの一つに「蚯蚓(みみず)鳴く」という季語があります。これは秋の夜に長くじーっと続く物音(あるいは雰囲気)を形容したものです。蚯蚓が鳴くことはありえないので、本当はオケラの声なのだという解説もされます。ただ一方で、民俗学者の柳田国男は昔、蚯蚓は目と声を蛇ととりかえた、だから蚯蚓はいい声でなくのだ、という言い伝えを紹介しています。秋の夜長を彷彿とさせる、俳句らしい、どことなく哀しい言葉ですね。子規の句の「手水鉢」は今でいう洗面器のこと。
〈手洗へば蚯蚓鳴きやむ手水鉢(ちょうずばち)〉正岡子規
〈童子呼べば答えなしただ蚯蚓鳴く〉正岡子規
〈蚯蚓鳴くかなしき錯誤もちつづけ〉前田青邨
和歌では、春の曙と対比して秋の夕暮が特に情緒をかき立てるものでした。
〈見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮〉藤原定家
〈さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ〉寂蓮
〈心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ〉西行
これは、いずれも「新古今和歌集」に収録されている歌ですが、秋の夕暮を詠んだ歌「三夕の歌」として有名です。
特に定家の歌はわび茶の精神を体現する歌として、茶道の世界でも有名で、定家の書も茶室の掛け物として珍重されます。定家のお父さんにあたる藤原俊成の歌も有名です。
〈夕されば の辺(べ)の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり 深草の里〉藤原俊成
人間の心や皮膚感覚に季節の移り変わりを重ねて観察するのが、詩歌のもっとも大きな働きのひとつです。
── 秋の夕暮れに詩歌を連れて、つまりは歳時記を片手に散歩してみてはいかがでしょう?