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2008年以降、特に自然科学分野での受賞が急増し、今年も見事、医学生理学賞に本庶佑(ほんじょ・たすく)氏が選ばれました。
日本からの歴代ノーベル賞受賞者は26人ですべて男性。世界的に見ても、自然科学部門でノーベル賞を受賞した女性は歴代17人しかいません。そのなかで、物理学賞、化学賞の二度の栄誉に輝いたマリー・キュリー。キュリー夫人としてあまりにも有名ですね。
今日はキュリー夫人の誕生日。女性科学者だけではない、妻、母、女性……の顔をみていきましょう。
マリーは1867年、ポーランドのワルシャワで教育者の子として生まれました。苦学の末パリのソルボンヌ大学に入り物理学を学びます。
収入は、家庭教師でためたお金と故郷からのほんの少しの送金のみ。食うや食わずの生活の中で、マリーは最優秀の成績で物理学の学位を取得します。
その翌年、物理学者だったピエール・キュリーと出会いました。
自然や田舎が好きで、お金や快適な暮らしよりも物理の研究に情熱を注ぐところなど、似たところの多い二人は出会った翌年に結婚します。
質素な式を終えた二人は、祝い金で購入した自転車に乗って、フランス田園地帯をめぐる新婚旅行に出たそうです。
二人の実験室は、雨漏りするような老朽化した倉庫。そこでウラン鉱石から目には見えない不思議な光線が出ていることを発見したマリーは、ピエールと協力してウラン鉱石から、その光線を取り出すことに成功しました。
その光線を母国、ポーランドから名前を取って「ポロニウム」と命名。しかしポロニウムを取り出しても、まだ鉱石から別の光線が出ていました。
マリーは娘を育てながら生活のために女学校の教師をし、ピエールと研究を続け、1902年、とうとう放射線物質「ラジウム」を取り出すことに成功。「放射能」とは放射線を出す能力のことでマリーが名づけました。
キュリー夫妻はこれらの功績を称えられ、1903年にノーベル物理学賞を受賞します。ノーベル賞は夫婦愛の結晶だったのですね。
ところが、ピエールは1906年に交通事故で亡くなくなってしまいます。
マリーは死んだ夫の後を継いで、ソルボンヌ大学ラジウム研究所キュリー実験室長となり、ソルボンヌ大学最初の女性教授となりました。
1911年には、金属ラジウムの抽出に成功したことにより、再びノーベル化学賞を受けることになります。
この時マリーは「この栄誉は、夫ピエールとの共同研究によりその土台が築かれたもので、私へのおほめの言葉は、そのままピエールへの賛辞であると考えます」── 亡くなった夫に最大級の敬意を表したのでした。
ところが、この二度目のノーベル賞受賞と同時期に、マリーは大変なスキャンダルに巻き込まれていたのでした。
『恋の物語、キュリー夫人とランジュヴァン教授』── 1911年11月4日、新聞の一面トップに、大見出しの記事が……!
マリーより5歳年下のポール・ランジュヴァンはかつて夫、ピエールの弟子で、マリーとは旧知の仲でした。当時、仕事に無理解だった妻とうまくいっておらず、別居状態。未亡人のマリーがランジュヴァンに同情して相談にのっているうちに、恋愛感情がめばえたとのこと。
ランジュヴァンの妻が、夫の引き出しからマリーの手紙を盗み出し、それが記者の手にわたってしまったことが引き金となりました。
マリーが史上初となる二度目のノーベル賞受賞通知を受けたのは、そのさなかのこと。マリーは気丈にも、ストックホルムでの受賞式に出席し、受賞講演をきっちりとこなします。
そして、ここでついに力尽きたのか、翌年まで外国で静かに療養することを余儀なくされます。
最愛の夫を喪い哀しみの渦中にあったマリー。相手は妻子ある身とはいえ離婚寸前。マスコミの報道さえなければ、新たな幸せを掴むこともできたかもしれません。マリーの行為は、そこまで責められるべきものだったのでしょうか?
結局、騒ぎをこれほど大きくしたのは、マリーが珍しい女性科学者で叩きやすかったこと、男性中心主義の社会ゆえのねたみ、そねみ……がなかったとは、考えにくいですね。
マリーは、女性が新たな分野に挑戦する筋道をつけた開拓者(パイオニア)でした。それゆえ、この試練を受けなければならなかったと言えるかもしれません。
そして、マリーは逃げも隠れもせず、この試練を見事に乗り越えました。
マリーは、1934年、白血病で亡くなります。享年67歳でした。
20世紀初頭は、放射線被曝の危険性は周知されておらず、長年の研究の放射線被曝によるものではないかといわれています。
科学者としての道を突き進みながら、結婚し、二女を育て、世界的な栄誉に二度も輝きながらおとなの恋も……。
「リケジョ」どころか、スーパーレディ……いえいえ、マリーの長女、イレーヌは夫との共同研究でノーベル化学賞を受賞しているというのですから、ミラクルレディ……ですね(笑)。
マリーの次女であるエーヴ・キュリーが、1938年に母親の伝記を出しています。『キュリー夫人伝』(白水社)── 読書の秋、一読してみたいですね。