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節気は小暑。礼記月令ではこの時期を「温風始至、蟋蟀居壁。」と記し、熱帯の高気圧(日本では太平洋高気圧)が温帯地域を広く覆い始め、コオロギなどの夏虫たちは家の外壁などにとりつき、自然の勢いが人の生活圏を乗り越えて活発になる様子を表しています。
宣命暦はこれをそのまま初候・次候にあてはめていますが、本朝(和暦)七十二候は初候「温風始至」をそのままに、次候を「「蓮始開」と改めました。ちょうどこの次期が盂蘭盆(精霊会 しょうりょうえ)に重なるために、その意味合いもこめたかったからでしょう。
蓮は仏教との縁は切っても切れず、仏像は蓮華座といわれる蓮の花の台座にすえられます。もっとも有名な念仏のお題目である「なんみょうほーれんげきょー」も「南無法蓮華経」で、仏法そのものが蓮の花に例えられていますよね。
そんな蓮は、記紀や万葉集をはじめとした日本の名だたる上代古典に登場します。飛鳥時代には藕糸(ぐうし・ハスの根や茎からとった繊維で作った糸)で織られた曼荼羅図が新羅より謙譲されたとの言い伝えがあったり、また国宝である「綴織当麻曼荼羅図(當麻曼荼羅)」は、奈良県葛城市の當麻寺(たいまでら)で、藤原鎌足の夜叉孫に当たり、出家した中将姫が、観音菩薩の助を受けて一夜にして藕糸により織り上げたものである、とする伝説が残ります。
実際にはこの掛け軸は藕糸ではなく絹により織られていることが判明しましたが、ハスは尊いものであるとの信仰があるがゆえに生まれた伝説である、とも言えます。
ハスから糸を引き出すのは容易なのですが、取れる繊維はごくわずかで、40㎏の蓮の茎から僅か2gの繊維しか取れないといわれます。それほどの希少なものでも、仏験あらたかなハスを用いて織り上げることに大きな意味を見出す信仰が、古くから日本人に根付いていたことをうかがわせます。
日本の場合は現物の藕糸の歴史遺物は見つかっていませんが、熱心な仏教国であるミャンマーでは、古くから、そして今でも藕糸が織られています。インレイ湖のほとりに住むインダ族は、今も藕糸織の織物を生産しています。藕糸織の織物は、豪華なスパンコールを施されて、仏像に着せる着物として使用されます。アジアの仏教文化圏において、かつては仏を飾る聖なる織物として、各地で織られていたのかもしれません。
一方、ハスといえば私たち日本人にとっては、花をめでるものであると同時に、またはそれ以上に食材としてのレンコンの側面もいかんせん強いものです。平安時代の宇治平等院御幸御膳の献立にもレンコンの記述が見られるように、古くから食用になっていましたが、とはいえ、中世くらいまでの時代には、レンコンは藕(ぐう・ごう)、茎・葉柄を荷(か)、種子を的と呼び、薬効のある薬としての意味合いのほうが強いものでした。「常陸国風土記(718年)」の「香島郡」の章には、
其社南郡家北沼尾池。古老曰神世自天流來水沼。所生蓮根味氣太異。甘美絶他所之有病者食此沼蓮。早差験之。
(社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。土地の古老が語るには、この沼は神代に天より流れ来た水がたまって沼となったものであると。この沼で採れる蓮根は、 他では味わえない甘美なもので、病人もこの沼の蓮を食べると病気がたちどころに癒えるそうだ。)
とあり、現在の鹿島地方に神仙の水が流れ落ちた沼がかつて存在し、そこには病を癒すハスが生えていた、と、ハスが霊薬であるという信仰があったことをうかがわせます。ハスのつぼみが、やはり神仙の実とされてきた桃の実に似ていることも大いにその神聖視に影響したものと思われます。
常陸国(茨城県)といえば、現在では日本一のレンコン産地で、作付面積、出荷量ともに全国トップ、約53%を茨城県産が占めていることで有名です。東京市場では90%が茨城産で、そのほとんどは霞ヶ浦周辺で生産されています。
風土記の記述とあわせると、古くから茨城地方はレンコンの一大産地であるように思われがちですが、意外なことに茨城県のレンコンの大産地化はつい近年のことなのです。
日本在来のレンコンは、現在でも作出はされていますがあまり多くは出回りません。ねっとりとした濃い味が特色ですが、根茎の直径が細く、また深い場所に根を張るために掘り取りに手間がかかり、在来種が主産品だった時代には、今ほどレンコンは多く出回ってはいなかったのです。それでも明治に入ると、廃仏毀釈の流れを受けての寺の荒廃・没落による花バス栽培が凋落すると、蓮の産地では花バスからレンコン採取種の栽培拡大へと移行していきます。
そして大正時代、政府による農産物増産の計画を受けて、中国産のレンコン「支那種」「備中種」の作付けが推奨されるようになり、在来種の「上総」「天王」にとって替り、生産が大きく上昇していきました。現在市場に出回るレンコンも、ほとんどはこの「支那種」「備中種」になります。味わいはあっさりしていますが、在来種と比べて根茎がコロンと丸く太く、浅い場所に根を張るために、収穫作業が容易であることが大きなメリットでした。
当初の生産地は、東京や大阪の近郊農地で、 1950年頃まで、レンコンの生産は東京都東部の江東デルタ地帯から千葉県北総にかけての沖積地、大坂河内の沖積低地などが都市部の需要を担う主産地として知られていました。けれども、経済成長に伴い、これらの近郊農地が住宅地になるにつれ、より周辺地域へと生産地は移っていきました。1960年代には主産地は愛知、山口、茨城といった地域に移行していきます。
中でも茨城は、1970年の減反政策開始で、もともと台風に見舞われやすく、泥炭層の上にまた湖水沿岸で排水不良田が広がっていた霞ヶ浦北西部沿岸の米農家は、米水田を蓮田に切り替え、レンコン栽培に乗り出しました。
レンコンは米と比べて労働投下量、肥料投下量が大きくなる傾向があるものの、収穫から得られる収入は米の二倍程度になるため、土浦市一帯を中心に、レンコンの大生産地が形成されることとなりました。もちろんこの切り替えと新しい試みは簡単なものではなく、多くの努力と苦労の末に成功を見ることになったのは言うまでもありません。
レンコンは11月の晩秋から3月の早春にかけて多く出回りますが、7月ごろから早掘りの新レンコンが出荷されはじめます。夏にレンコン、というのはあまりなじみがないかもしれませんが、夏の新レンコンはアクが少なくみずみずしい味わいです。美しい花の鑑賞とともに、根茎の賞味も楽しめる季節となりました。