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小正月(旧暦の時代、年が明けて最初の望=満月の日=1月15日)の翌日16日とお盆(7月15日)の翌日16日は、閻魔大王の縁日「閻魔賽日」の中でももっとも大きな縁日で「大斎日(だいさいにち)」といわれます。それぞれ「薮入り」「後の薮入り」ともいわれ、その日は「地獄の釜の蓋も開く」日、と古くから言われています。文化年間(1804~1818年)ごろに著された「秋田紀麗」には「此日と七月十六日は大斎日とて、地獄の釜もひらくと云ひ」という記載が見られ、少なくとも江戸時代には「地獄の釜の蓋が開く」=祖霊が戻ってくる、の意味で使われていたことはわかります。だけど地獄の釜の蓋も開く? 皆さんはなんだか変な言い回しだなと思ったことはありませんか?
多くの歳時記では、これを地獄にある罪人を釜茹でにしている鉄釜の蓋をはずして鬼たちが休みを取るので地獄の呵責も収まる日であり、地獄ですらお休みなのだから奉公人や主婦など日常なかなか休みの取れない者たちにも休みを取らせよう、ということになった、と説明されています。
でも、地獄絵図の釜に蓋なんてあったでしょうか。ぐつぐつ煮えたぎる釜からもがき逃れようとする人間たちを上から鬼たちが鉄の棒などで押し戻している様子が描かれていて、蓋がされている絵なんて見たことがありません。
こういう言い伝えもあります。1月15日と7月15日に鬼たちは休みをもらいます。休む際に罪人たちが逃げ出さないよう、茹で釜に重石の蓋を載せておくのです。そして翌日の16日、休みから戻ってきた鬼たちは蓋を取ってから閻魔大王に挨拶に赴き、通常営業に戻る、と。ですからこの両日を「釜の蓋も開く」ということになります。こちらのほうが、意味的にはすとんと納得できます。罪人たちをかまゆでから解放する日ならば、「釜の蓋を開ける」ではなく「釜を空ける」とか「釜を抜く」というのが普通の表現になるはずですから。ただしこれでも「蓋も」の「も」が説明できません。この「も」は地獄の釜の蓋ですら」という意味でしょうから、この解釈では逆に説明がつかなくなってしまいます。
一方で、盂蘭盆会のある旧暦七月、その一日を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」」または「釜蓋あき」「釜の口あけ」と言い、お盆にあの世からふるさとに帰ってくる精霊たちが、地獄の出入り口をあけてもらい、この世に出発する日だとされます。そして、お盆を自宅で過ごした亡者がふたたびあの世に戻りきるのが七月三十日であり、つまり七月いっぱいは入り口が開け放してあることになります。この説話によるならば、「地獄の釜の蓋」とは、茹でがまの蓋ではなく、地獄とこの世とが通行できないように封じている門のことになります。
しかしこの言い伝えもちょっとおかしなところがあり、この説によると人々は先祖たちが必ず地獄に落ちている、と思っていることになり、果たして祖霊が地獄にいると思うものだろうか、という疑問です。まさかそんなことはないでしょうから、「地獄」と言う言葉は、悪人が死後に落ちる文字通りの「ジゴク」という意味だけではなく、冥府・冥界全体を漠然と指している場合とがあるように思われます。
おそらく、地獄の釜の蓋とは、死者を棺おけに収めて埋葬する風習から、死者を封じ込めた墓所の墓石や棺おけの蓋などのイメージと結びついたものなのではないでしょうか。そしてお盆には、棺おけの蓋を開け、墓石をどけて地上に出てきて家に戻ってくる、と。お盆の迎え火も、墓所から家の玄関までですよね。
さて、「ジゴクノカマノフタ」という小さな野草があることをご存知でしょうか。別名キランソウ(紫藍草・金襴草/Ajuga decumbens)と言い、春先から初夏の手前ごろまで、日当たりがよい林のふちの斜面などに見られる、小さなしそ科の花です。
目の覚めるような紫色のあざやかな花を無数につけ、そのキラキラした様子が金襴(きらん)の織物の切れ端が散らばったように見えること、また紫の古語である「き」に、藍色の藍をつなげて「きらん草」とも言われます。そんな花がなぜ「地獄の釜の蓋」という名があるのでしょう。
キランソウは弘法草(こうぼうそう)とも言われ、弘法大師空海が病気平癒の薬効あらたかであることを広めたとされ、実際風邪や高血圧の特効薬となる薬草であることから、地獄=冥土へ落ちる穴をふさぐほど薬効がある、ということからそうついたともいわれますが、花が終わり、秋の彼岸の頃になると、地を匍匐して横に茎をべったりと広げて伸張した様子が、地下の国=地獄の穴をふさぐ蓋のようだということから、そう名づけられたともいわれます。
もしそうだとすると、やはり「地獄の釜の蓋」とは地下=冥土に通じる地面に開いた穴をふさいでいるマンホールの蓋のようなものだとイメージされていたという推測を補強します。
「黄泉(よみ)」「根の国」「常世の国」など、日本人の「あの世」観はキリスト教国などと比べると曖昧で混沌としたものです。「地獄」のイメージも、さまざまな意味がごった煮状態になっていて、薮入りならぬ、真相は「藪の中」といったところでしょうか。
その中国風の官服に、カッと口をあけた忿怒の風貌と特殊な役柄から、仏教系の神格の中でもキャラの立ち方ではピカ一の閻魔大王。閻魔の神格のもとは古代インド・バラモン教の四聖典のひとつ「リグ・ヴェーダ」( ऋग्वेद ヴェーダ賛歌 )に見られる、この世界で最初に死に、天国への道を見出した人間ヤマ(यम, Yama) とされます。このことから、後に冥界-死者の国の支配者として見られるようになり、やがて地獄の主のような現在の恐ろしげな姿へと変貌していきました。
閻魔大王の必携のアイテムとして、すべての真実を映し出す浄玻璃の鏡の他七枚の鏡があって、そこには生前の人間の行いがすべて映像として投影されて、裁きを受ける人間は自身の行いをすべて鏡によってみせられることとなります。そして閻魔庁(えんまのちょう)には人間の生前の善悪をもとに、ふさわしい審判・懲罰が与えられることになります。さらに嘘をつく者にはペンチで舌を引っこ抜くという恐るべき拷問をすると伝えられ、昔の子供たちは「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれるよ」と脅されました。
中国ではこの死後の裁判は十人の裁判官「十王」によってなされると言い伝えられ、閻魔はその第五位にあたるとされます。日本に十王神話が伝わると、閻魔大王のみがクローズアップされ、さらには鎌倉時代、偽経「地蔵菩薩発心因縁十王経」の登場で閻魔大王の本地(本当の姿)は地蔵菩薩(お地蔵様)であるという信仰が生じ、お地蔵様を信仰し拝むことで、死後の閻魔の裁きが温情的になると信じられ、地蔵信仰の陰の立役者となりました。
閻魔様は「庚申信仰」とも結びつきます。庚申信仰=庚申待ちは、平安時代ごろには貴族の間で流行し、時代が下ると武家から庶民へと伝播していきますが、江戸時代ごろには全国各地の村で、庚申(こうしん・かのえさる)の日の夜に「庚申待ち」講がおこなわれていました。庚申の夜中に、人間の中にいる三尸(さんし)虫が寝ている間に体から抜け出して閻魔大王の下へと参じ、その人の悪行を逐一告げ口する、という俗信から、その日の夜は三尸の虫が体から抜け出させないように徹夜をして過ごすのです。昔の人々が閻魔大王の死後の裁きを、割と本気で恐れていたことをうかがわせます。
閻魔像は全国各地にありますが、東京都の深川ゑんま堂(法乗院)は、日本最大の閻魔像を祭ることで知られています。その大きさは全高3.5m、全幅4.5m、重量1.5tという巨大な寄木造り坐像。極彩色で彩られた木像はエキゾチックですらあり、江戸の下町でありながら、外国にでも迷い込んだような錯覚を覚えます。大晦日から16日にかけてはゑんま天の御開帳がおこなわれています。
また本堂一階に展示されている全16枚の地獄・極楽図は、天明4(1784)年に宋庵という絵師によって描かれたもので、地獄の責め苦の恐ろしさや、極楽浄土の美しさを描いています。初詣がまだという人ももうすませたという人も、お出かけしてみてはいかがでしょうか。
深川ゑんま堂