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狩猟と漁労が生活の基盤だった縄文時代や、稲作が伝えられて定住が始まった弥生時代に人々がどんな生活をしていたか? 全国に広がる遺跡とそこで出土されたさまざまなものをチェックしてみましょう。ありますよ! 動物を捕るための落とし穴が遺構となっています。石の鏃(やじり)が突き刺さった状態の肩胛骨が残っています。人間が作ったものもありました。縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪です。縄文のビーナスは胸とお尻が大きな何とも愛嬌を感じる土偶ですが、これは子孫繁栄を祈る祭祀に使われたということです。他にも鹿や猪、犬といった動物を形どったものもたくさん出土しています。中には矢の刺さった鹿の埴輪、鹿を追いかける画が描かれた銅鐸も多数見つかるなど、狩りの大事な獲物だったことがわかりますね。鹿は食料としてだけでなく毛皮や骨、また角も大切な生活に役立つ道具の材料となっていきました。古代らしいのは、鹿の骨が人々の生きる指針を決める占術、卜骨(ぼっこつ)に使われていたということです。亀の甲が使われたというのは有名ですが鹿の骨も使われていました。鹿の骨や亀の甲を熱してその割れ方で方針を決めるというものです。大自然の中を経験の積み重ねで生きていた古代の人々が決断を下す、その真剣さが伝わってきます。
奈良公園でみる鹿の群は可愛らしくて思わず近づいてしまいますが、時にはちょっと怖かったりもしませんか。昔から大切にされてきた春日大社の人気者ですが神使(しんし)、神の使いと考えられています。いつから神様のお使いになったのでしょう? その由来は奈良時代に遡ります。春日大社創建の時にお迎えした鹿島神宮の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗って春日大社までいらしたからといわれています。
神話によると武甕槌命は天照大神(あまてらすおおみかみ)から鹿の神霊とされる天迦久神(あめのかぐのかみ)を使者として送られたことから、鹿が鹿島神宮の神使となったそうです。このあたりのお話は8世紀に作られた日本で初めての文献で「古事記」「日本書紀」に書かれているということです。日本の成り立ちの神話と伝説の世界から常に身近にいたことがわかります。鹿は立ち姿も美しく神の使いとして納得できるのもだったのかもしれませんね。
古代から日本中に住んでいた鹿はたくさん歌に詠まれてきました。百人一首のなかにもみなさんにおなじみの歌がありますね。
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」 猿丸太夫
「鹿の声」といえば秋。鹿の鳴き声は10月あたりがピークとなる交尾期に牡が牝を誘うものです。哀愁を帯び秋の季節を感じさせるため、紅葉とともに詠まれることも多くあるようです。
「恋すてふ角きられけり奈良の鹿」 一茶
「鹿の角切り」も秋。奈良の春日大社では牡鹿の角を切ります。交尾期に入ると気性が荒くなり観光客に危害を加えるといけない、という配慮で行われるということです。
「角落ちてはづかしげなり山の鹿」 一茶
「鹿の角落つ」といえば春。鹿の角は切らなくても自然に根元から片方づつ落ちるそうです。でもちゃんと次の角が袋角(ふくろづの)の中に用意されています。年を重ねる毎に二叉、三叉と一つづつ叉が増えていくそうです。立派な角を持っているのは男盛りということでしょうか。年を取ってくると角が落ちるのも早くなるとか。ちょっと身につまされます。
「鹿の子に小旗のような耳ふたつ」 石川文子
「鹿の子」といえば夏。5月の中頃からが出産シーズン。生まれた子は30分もすると自力で立ち上がり親の後をついて歩き始めます。健気なかわいさについ目で後を追ってしまいます。角が生えるのは牡で二年目からとのこと。
自然の中で生きている鹿はちゃんと角が生え替わる時期を持っていることがわかりました。私たちの髪の毛が生え替わるのと同じことのように思えます。「鹿」は現代に生きる日本人にとっても神域でふれあえる身近な動物と感じられるでしょう。一方で開発がすすみ生息地を失った鹿達にとっては、人間が育てた作物を求めて出て行かなければならない危機でもあります。鹿の角が自然に落ちるのを見て季節を感じることができるような、互いに共存できる世界を作れたら、叶わぬ理想かもしれませんがそう思わずにはいられません。