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「さすが美空ひばりはすごい! やっぱり大スターだ!」とファンを唸らせたのが、亡くなる前年の1988年4月11日、竣工間もない東京ドームで開かれた「不死鳥コンサート」ではないでしょうか。5万人の観客の前で39曲を熱唱したひばりの姿をみて「生身の歌声の凄まじい存在感を思い知らされた」と音楽評論家の萩原健太氏は思い出を語っています。(注1)
この時ひばりさんの身体は両側大腿骨骨頭壊死、慢性肝炎と診断され一年の療養生活を送ったあとのことだったのです。本来なら舞台に立てる身体ではなかったはずです。しかし元気な姿で歌えることを念じていたひばりさんは、復帰にむけて用意された「みだれ髪」を手にした時再び歌い出す決意をします。「きっと……きっと……みなさんの胸にじーんとくる歌が完成しますよう…努力致します」と熱い胸のうちを作詞家星野哲郎氏に書き送っています。
この後12月の帝国ホテルのディナーショーまで、歌への思いとともに全国をコンサートで廻りました。人生を歌うことで貫いてきた美空ひばりの強い心を感じずにはいられませんね。
(注1:大人の♪MusicCalendar)
生まれたのは1937年(昭和12年)5月29日。神奈川県横浜市磯子区滝頭(たきがしら)町。「屋根なし市場」と呼ばれるマーケットの中にある魚屋「魚増」がひばりの生まれた家です。素朴な心をもった人々があけっぴろげで、気安く助け合いながら生きている庶民の町、それがひばりが子供時代を過ごした場所。「屋根なし市場」の大勢の人々にかこまれて育ったひばりは街の子でした。
栃木から出て来て苦労して店を持ったお父さんは多芸多趣味。ギターが得意で都々逸や端唄の節回しは玄人はだし、そして熱狂的な浪曲ファン。そんなお父さんのそばでひばりは自然に浪曲、都々逸を覚えます。またひばりが3歳のころ流行した小倉百人一首を大人達が楽しむ横で聞いていてすらすらとそらんじてみんなを驚かせたということです。このように物心つく前からひばりの魂に、日本民族の音楽の原型ともいえる七五朝のリズムがしっかりと耳からはいり刻まれていったのです。
戦後は焼け跡に明るい音楽を、と復員してきたお父さんは素人楽団をつくりひばりと共に地元で演奏活動を開始します。この時9歳。その歌のうまさに熱狂した周りの大人が大喜びでする拍手を、ひばりは心に受けとめ歌う楽しさに目覚めたのです。
誰もが認める昭和の大歌手ですが、デビュー間もない頃はその才能ゆえに激しいバッシングがありました。地元ではすっかり有名なちびっ子歌手のひばりはNHKの「のど自慢素人音楽祭」に出場して「悲しき竹笛」を歌います。当然と期待されていた鐘どころか、残念賞の鐘すら鳴らないのです。あどけない顔をした9歳の少女が歌っているとは思えない、大人の歌のうまさだったのです。そのアンバランスに審査員も大いにとまどったのでしょう、子供らしくないと反感をかってしまい鐘が鳴らなかったのだということです。幼い子の愛らしさや未熟さは全くなく、9歳にして歌の情緒を醸し出せる大人の歌を歌っていたのです。
その後もひばりの歌は大人達を驚かせ、一部の人には受け入れて貰えず、声高な批判を浴びるなど苦しくにがい思いを重ねますが、大衆からの支持は熱く人気が爆発していきます。
「歌が好き。歌っている時が一番しあわせ」と心が向くままに歌い続けることで、誰もが認める日本の代表的な歌手へと成長していきました。
1989年(平成元年)6月24日、美空ひばりは人生を昭和とともに閉じるかのように逝きました。52歳でした。その10日後、女性では初めて国民栄誉賞が贈られました。
生涯のレコーディング数は1500曲、内オリジナル楽曲数は517曲、出演映画数:166本。コンサートは一体何回あったのでしょうか?
亡くなった後もひばりの歌は歌い継がれ、映画は上映されて私たちを楽しませてくれることでしょう。美空ひばりに終わりは永遠にないということでしょう。
参考文献:
『完本 美空ひばり』竹中労
『戦後 美空ひばりとその時代』本田靖春
『昭和の歌姫 美空ひばり』近代映画社
『運命を変えた手紙』文藝春秋社編集部