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「春と修羅」出版から約一年経ったあとにしたためられた私信で、賢治は「春と修羅 序」についてふれています。
前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。
(大正14(1925)年2月9日 森佐一あて封書より)
反響の少なさに落胆していることから卑下した表現をとっていますが、賢治がその「序」にこめた思いが、壮大な既存世界への挑戦状だったことがわかります。では何を、どう「変換」しようとしたのでしょうか。
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
人類が営々と記録してきた書物による「記録」は、「けだし(考えてみるに)」人が感覚器官を通じて感じたりさまざまな印象を抱いたりするのとまったく同じで、私たちがそう感じて受け取っている印象、イメージに過ぎない、と賢治は言います。
歴史資料も科学の示す証拠(エビデンス)も、全てただの無意味な主観にすぎないのだ、と賢治はいっているのでしょうか。
「序」はここからこう続きます。
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
ここで語られている「氷窒素」の気圏から発掘される「化石」は、すでに多くの研究者に指摘されているように、「銀河鉄道の夜」の中で、ジョバンニとカムパネルラが唯一下車するシーンで対応する箇所があります。
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。」(「銀河鉄道の夜」<七、北十字とプリオシン海岸>より)
銀河の河原で、巨大な太古の牛の化石を掘り出している大学士はこういいます。彼にとっては立派な厚いしっかりした地層が、もしかしたらそれは自分にはそう見えてるだけで他の者から見たら「風か水かがらんとした空」に見えるんじゃないか、と心配しているのです。
実際、発掘現場は銀河の河原なのですから、地球上の私たちがもしその場所を望遠鏡で観測しても、「がらんとした空」空虚な宇宙空間があるだけでしょう。
たとえば動物の分類にしても、アライグマの仲間とされていたパンダがクマの仲間に分類されるようになったり、ワシやタカの一種と考えられていたハヤブサがスズメの仲間にふりわけられたり、あるいは古生物学も、冷血動物の爬虫類とされ、直立してのろのろ歩いている想像図の恐竜が、あっという間に羽を生やして鶏のようにちょこまか駆け回る想像図につけ換わったり、天文でも冥王星が惑星からはずされてしまったりと、科学の「定説」はめまぐるしくアップデートされ、現在言われている定説や事実も、いずれまた書き換えられることになるのは間違いがないでしょう。
しかし賢治は、こうした科学的定説のめまぐるしい変化をもって、移り変わる科学を信用するなとか、間違いの連続だといっているわけではありません。それらはそのときは実際に「そう感じられるままに事実だった」といっているのです。しかし一方、たとえどんな精密機材で測定して得たデータも、再現性の高い科学的エビデンスも、すべてそれは「そのように見えて(感じられて)いるもので、普遍ではなく常に変動するのだ、といっているのです。
そのように科学を観測者の感じるままのものだと認識するのならば、将来、精妙な大気や水の中か、また何もないとしか思えない場所から、目に見えない生物の痕跡を見つけることも出来るようになるだろう、というのです。
これらの喩えはきわめて美しく、またスケールが大きい奇抜なイマジネーションですが、実際私たちが「生命」というものを地球上に生きる炭素を素材とした生物を想定している限りは、気圏に痕跡を残す巨大な孔雀も、恐竜時代に存在していた透明な人類の痕跡も見つけることは出来ないでしょう。賢治は、これを単なる詩人のイマジネーション、ただの空想や比喩として提示していたわけではないこと、実際に本当にそれらのものが見つかるはずだと考えていたことこそが、この「序」の持つ意味です。
近年、科学の世界では宇宙には珪素を素材とした、地球上の生物とは全く異なる生命体がいるかもしれない、という仮説が提示されてきています。珪素だけではなく、何千度に燃える恒星の中にすら、熱そのものを呼吸する生命体がいないとも限らないのです。
「巨大な人類」のイマジネーションは、グノーシス主義の教義の中で、「アダム・カドモン」なる始原の巨人がいたとされます。おそらく賢治はそれも知っていました。賢治の生きた時代、19世紀の終わりから20世紀の前半は、オカルティズム(神秘主義)が世界的に大流行した時代だったからです。
さて、いよいよ結びのくだりです。ここも一見難しい言い回しが登場します。
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
「第四次延長」とは、相対性理論の「四元ベクトル」のことだと容易に理解できます。「四元ベクトル」とは、物体の存在に無関係に空間と時間が普遍的座標で存在しているとする三次元空間(ユークリッド空間)に時間と光速度を乗じた四次元時空のことです。アインシュタインの特殊相対性理論を説明する理論的モデルとして1907年にヘルマン・ミンコフスキーによって提唱されました。賢治が「春と修羅」を著す大正13年の二年前、アインシュタインが日本に来日し、日本では大変なアインシュタインブームが巻き起こっていました。賢治自身がアインシュタインに言及したことは、メモの断片に「アインシュタイン先生」と記したものが見つかっているのみですが、賢治が、当時の最先端の相対性理論や量子力学に影響を受けていたことは間違いありません。
賢治にとってはミンコフスキー時空の理論は大いに救いになったはずです。なぜなら、時間と空間はひとつであり同じものなのですから、この世界、地上をどこまでも、この世の果てまで旅すれば、三次元空間から四次ベクトルの時空に入り込み、死んだものたちに出会えるかもしれないとも考えられるから。それが妹トシを思って1923年7月31日から8月12日にかけて、北海道を経由してサハリン(樺太)までの鎮魂旅行でした。それは詩篇として「オホーツク挽歌」の詩群、「銀河鉄道の夜」の死者たちとの旅へと昇華します。賢治の思いは、この世に生きている誰もが抱いている「会えなくなった愛する者に会いたい」という願いに満ちているため、読者の誰もの胸を締め付ける共感を呼ぶのでしょう。
それにしても、「幽霊を見ていた」とも一部の評伝で伝えられる賢治は、トシ子の幽霊に出会えたのでしょうか。
《みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます (青森挽歌)
どなたかポーセを知っているかたはないでしょうか。けれども私にこの手紙を云いつけたひとが云っていました「チュンセはポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果(りんご)をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。(手紙 四)
これらを読む限り、会えなかったと思われます。石炭袋に消えたカムパネルラを思って泣いたジョバンニのように、がらんどうの銀河のような、凍てついた原野を流れる川の岸辺で立ち尽くして慟哭したのではないでしょうか。
地理学者で宮沢賢治研究で著名な米地文夫氏によれば、宮沢賢治は晩年、書きついで来た従来の童話から、より年長に想定した長編の「少年小説」の執筆を構想しており、「銀河鉄道の夜」はその少年小説への脱皮と転換をうかがわせる描写があると指摘しています。37年で閉じられた賢治の人生が、50年、60年と続いていたら、どんな作品が著されたのかと思うと、その早すぎる死を恨みたくなります。そう思う私たちに宛てたメッセージが上記の「手紙 四」なのではないでしようか。
参考文献 「プリオシン海岸挿話」について 米地文夫