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『おくのほそ道』の序文には、草葺きの拠点(芭蕉庵)で活動していた芭蕉が出立前に詠んだ発句が、芭蕉庵の庵柱に懸置されていたと伝えられています。その句とは……、
草の戸も 住替る代ぞ(すみかわるよぞ) ひなの家
この句には「旅へのはやる心もち」と「自らが旅立った後への思い」が詠まれています。
当時2400kmにおよぶ旅程は命がけだったため、一方(ひとかた)ならぬ思いがあったのでしょう。
「旅へのはやる心もち」には……、旅立つ前に句を柱に掛けていくけれど、自分が無事に生きて帰ったら続きを巻こう。旅の途上で自分が死ねば誰かが代わりに巻いてくれるだろう……という切ない思いと覚悟が詠まれています。
そして「自らが旅立った後のこと」には……、単身の男所帯だったが、自分が旅立った後は草葺きの荒れたこの家に新たな住人を迎えることになる。これまで自分には縁がなかったが、節句にはきっと雛をかざるにぎやかに光景が見られるのであろう……住む人によってこの家も温かな光景に彩られるに違いないという当時の芭蕉の生活ぶり、思いも同句から読みとれます。
東北地方や北陸地方の名所旧跡をめぐり、岐阜(美濃)の大垣にまで足をのばす「おくのほそ道」ですが、3月27日に深川を出立した二人は4月1日(新暦5月19日)に日光に入ります。東照宮の地に立った芭蕉が詠んだのは、
あらたうと 青葉若葉の 日の光
空まで伸びるように背の高い木々は新緑に彩られている。しかも遮られるはずの陽光が根元の部分にまで燦々と降り注いでいる。日光山と日光東照宮はなんと美しく神々しい場所なのだろう。これはきっと弘法大師様と東照宮様のおかげだ。
余談ですが、そもそも江戸時代は旅行に行きたくとも、御上の許可を得たうえに交通許可が必要だったため、権力者も豪商も長期旅行などできなかったご時世。それゆえ全国を自由に往来できたのは、幕府の命を担った隠密に限られていたとされています。
そうしたことから「芭蕉は幕府のスパイ(隠密工作員)であり、俳人は隠れ蓑」という一説があります。この説は幕府の情報を地方の代表者に伝える役割と、地方の情報を幕府に伝える役割を担っていたとされるものですが、幕府の要所であった日光東照宮に立ち寄り、神君・家康公を仰ぎ見る俳句を詠んでいることも、その信ぴょう性を高める論拠のひとつになっているようです。
真偽のほどはともかく、三百余年後に生きる私たちをうならせる数々の名句を創出する感性は、英米の諜報員が真似したくとも真似できない稀有な才能といえますね。
福島、仙台を経て5月12・13日(新暦6月28・29日)に奥州平泉を訪れた芭蕉は、約500年前に同地で栄華を誇った奥州藤原氏の功名と、その繁栄が一炊の夢(一時のこと)であった儚さに思いを馳せ、代表的な名句を詠みます。
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(あと)
6月末ともなれば、噎せ返るような草いきれの梅雨の頃。しかし、平泉の地に立った芭蕉の眼前に広がっていた景色は、どうやら寂寞とした初夏の叢(くさむら)だったようです。
そうした風景を見た芭蕉は『おくのほそ道』に下記の一文(一部引用)を記述します。ここで有名な〈国破れて山河あり〉が登場します。
〈「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ〉
意味としては〈栄華を誇っていた国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている。繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。笠を脱ぎ地面に敷いて、ときの過ぎるのを忘れて落涙した〉。
5月27日(新暦7月13日)。芭蕉は山形の名勝地「宝珠山 立石寺(通称・山寺)」を訪れます。
長年にわたる水蝕と風蝕によって奇岩怪石の相を見せる凝灰角礫岩、生い茂る木々、急峻な岩塊に溶け込むように配置された山寺の史跡名勝……。これら様々な魅力ある要因で構成された「宝珠山 立石寺」は、今も全国から多くの人が訪れる貞観2(960)年開祖の霊場山寺です。※山形市山寺4456-1
登山口からほどなくして右手に「芭蕉句碑」があり、左手には芭蕉と弟子の會良がひと休みする像があります。そして、その先に「山門」があり、この入山口から「奥之院」までは急斜面に設置された1000段以上の石段を登らなければなりません。
健脚自慢の人でも一気に登りきることは困難といえますので、訪れた際には中ほどにある芭蕉の句碑「せみ塚」で、ひと息つくとよいかもしれません。