- 週間ランキング
「啓蟄」の時期になると、暦どおり昆虫や節足動物を見かけることが急に増えてきます。筆者もつい先日大きなヒキガエルが道を渡っているところに出くわし、「春だなあ」と感じました。
でも、昆虫類やカエルなどと比べても「虫」の字の元になった蛇は格段に寒さに弱く、冬眠から目覚めるのはもう少し先になります。
日本に生息するヘビの種類は36種。そのうち本州、九州、四国には8種類(アオダイショウ、シマヘビ、マムシ、ヤマカガシ、ジムグリ、シロマダラ、タカチホヘビ、ヒバカリ)、北海道には5種のみが生息し、それ以外は亜熱帯の島嶼に生息するヘビです。
ヘビが太古の人類に恐れられ、またあがめられていたのはその生命力の強さと毒によります。ヘビの生殖はオスメスが大量に入り混じり(または一匹のメスにオスが大量に群がり)くんずほぐれつの大乱交を繰り広げることで知られ、これをブリーディングボールと言ったりします。オスメス二匹だけの交尾では、全身で絡み合ったまま数日間にもわたり交尾を続け、その姿はまるで、中国神話で人類を作ったとされる女媧と伏羲そのもの。人間はそれらの生態を目撃することで、ヘビの生命力と生殖力に驚異と畏怖の感情をもったに違いありません。
ちなみに、放出された精子はその後卵子に結合しないままでも数年間体内で生き続けるというから驚きです。こうしたことから、蛇は古くから滋養強壮の特効薬として知られてきました。
まん丸のヘビの目も特殊で印象的。まぶたがなく、そのかわりカプセルのように透明なうろこが覆っています。見開かれた無機質な瞳に不気味な印象を持つ人も少なくないでしょう。またその瞳の構造は、水晶体の厚みが変わらず、水晶体そのものを前後左右に動かして、厚みの違う部分を瞳孔に重ねることでピント調整するという特性を持っています。これは陸生生物ではヘビだけで、水生に適応したカメやワニにもない特性です。
このためヘビの祖先は水生爬虫類だったとも言われています。海生爬虫類から進化したとする説、淡水の爬虫類から進化したとする説(何とこの説は日本の石川県白峰村の桑島化石壁から1億3000万年前の地層から淡水生の蛇の祖先の化石が見つかったことによります)、やわらかい土、泥のような場所で進化したとする説が、今も議論されています。いずれにしても、それらの爬虫類から白亜紀にヘビと同じような姿をし、後ろ足だけが残ったパキラキス (Pachyrhachis ) が現れます。パキラキスは浅い海に生息していました。ヘビの祖先たちは波打ち際の泥海でハゼのように半水生生物として進化して、次第に乾燥地域にも適応していったものと思われます。
爬虫類の仲間はどれも個性的ですが、とりわけヘビの姿は特殊できわめてインパクトがあるため、龍と同一視され、またそのモデルにもなりました。
「易経」(B.C1500年ごろ)の「繋辞下」には
龍蛇之蟄 以存身也
(龍蛇の蟄するは以て身を存するなり)
とあり、ヘビと同様、空想上の生物・龍も地中で冬眠するとされました。
先述したようにヘビの目にはまぶたがなく、常に見開いているため、ヘビの目、つまり「じゃのめ」は呪力の強いものと信じられ、古くから二重円の形に意匠化され、太陽、特に朝日に見立てられてもしてきました。
日本神話に登場するヘビの怪物「八岐大蛇(やまたのおろち)」は、日本書紀で「頭・尾、各(おのおの)八岐(やまた)有り。眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。」と表記され、また、天照大神が日神に収まるまでの原始日本で太陽神としてあがめられてきた猿田彦神(さるたひこのかみ)は、同じく日本書紀に「一神あり、天八達之衢に居り、其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り、まさに七尋といふべし、また口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして、てりかがやけること赤酸漿(あかかがち)に似れり」とあり、ほとんど八岐大蛇と同様の描写がなされています。猿田彦神の「尻が輝いていた」というのは、八岐大蛇の尻尾から神刀・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)があらわれた、という描写に対応しています。太陽神・猿田彦神もまた大蛇の神でした。ちなみに「赤酸醤」とは赤く色づいたホオズキの実のことです。「かがち」の「かが」は「かがやく」の語源で光り輝くもの、太陽を意味します。日本書紀に登場する邪神・天香香背男(アメノカガセオ)の「カガ」も同様。この神もまた太陽神でしたが、中央政権から貶められ、太陽から星=天津甕星に降格されて鎮圧されてしまうのです。
「大和」という国がはじめて誕生した当時、その中心地であり神体であった奈良の飛鳥の三輪山大神神社の神、大物主大神もまた典型的な大蛇の神でした。
神社などの神域に飾られる注連縄はヘビをあらわし、これは道切り(辻きり)行事などではその正体を現してヘビそのものの姿で村の境の魔よけの結界として道筋にかけられます。縄文土器の縄文文様もまた、ヘビを表現してその生命力と呪力を器にこめたものです。日本は蛇神をあがめる国であり、太陽そのものが「蛇」だったのです。
今でも仏教や山岳信仰と習合しながら、原始の太陽信仰の名残は存在しています。
畿内地方では彼岸に、朝は東の、昼は南の、夕方は西の寺社を巡り歩く「日の伴」「日迎え日送り」と呼ばれる行事があり、これは原始的な太陽崇拝の名残と考えられます。東日本、関東から福島あたりでは、寺の境内や仏堂の前に天棚(てんだな)を設けて日天・月天の木牌を立て、周囲を回りながら踊る天道念仏があります。天道念仏は五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈念するもので、福島県白河の天道念仏は「さんじもさ踊り」とよばれ、赤く太陽を描いた扇を持って、舞庭の中央に組まれたお棚を回って踊ります。
千葉県印西市武西(むざい)では「称念仏踊」「しょうねえ」とよばれ、1月16日の鉦おこし念仏、1月18日~20日の寒念仏、2月15日の天道念仏、3月・9月の彼岸念仏、6月10日前後の虫送り念仏、8月13~16日の棚念仏・施餓鬼念仏、9月10日前後の荒除け念仏などが延々と行われ、太陽信仰の原型をうかがうことができます。
また、天道念仏の盛んな地域では、旧正月前後に関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事も盛んです。
オコナイは豊作祈念行事のことで、その年の頭屋(とうや/村社の年回りの持ち回り当番)の家で鏡餅づくりや茅の輪くぐり、丸い的に矢を射るなどの行事を行います。関東のオビシャは、三本足の烏(ときに三つ目の兎)を描いた的を弓で射る、地域の鎮守の森で行われる豊作祈念行事。烏の絵の場合「カラスビシャ」とも呼ばれ、利根川流域、特に千葉県では盛んに行われています。これは、道教の思想に見られる太陽に住むという八咫烏を的にしたものですが、つまり太陽の目に見立てた烏の目を射抜くことにより、その年の太陽の恵みをゲットするという願掛け。太陽なのに蛇じゃなくて烏じゃないか、といわれるかもしれませんが、神社には「鳥居」があります。原型となった朝鮮半島の神域を現すソッテとかチントベキという木標は、木造の鳥を止まらせています。これらの元になった東アジアの古代集落の「鳥竿」(とりざお)祭りには鳥居にかけられるのはやはり注連縄。つまり、「カラスビシャ」で描かれて射られる的は、眷属の烏の姿に描かれていても、的そのものは「蛇の目」なのです。(これらについての話は、いずれ童謡「七つの子」で詳しく述べさせていただきます。)
マヤ族のチチェンイツァの古代都市遺跡にあるマヤ族最高神ククルカン(ケツァルコアトル)を祀るピラミッド神殿、エル・カスティーヨでは、春分と秋分の1年に2回、「ククルカンの降臨」と呼ばれる現象が起きます。ククルカンは何と、羽を持つ蛇の神、つまり鳥であり、ヘヒなのです。マヤ・アステカのピラミッドの特徴である階段状の段々の形状。階段の最下部に地上にふれた場所にはククルカンの頭部がきざまれていて、春分と秋分の日にのみ、側壁にピラミッドの影が投影されて、ぎざぎざしたヘビの胴体の姿が日の光となって浮かび上がって頭像と合接し、空から滑り落ちてくる巨大なヘビの姿となって現れるのです。言うまでもなく、ククルカンも太陽の神です。
「礼記」月令孟春には二月の半ばごろを「蟄虫始振」、落葉の季節の11月ごろを「蟄虫墐戸」とあらわしています。
なぜ秋分を迎えた直後(9月末)に蟄虫坏戸が入れられ、春分前の蟄虫啓戸が入れられているのか。もし蟄虫の「虫」が特に蛇を想定しているのなら、9月末ごろにはまだ冬眠に入るには早く、3月の最初では冬眠から目覚めていません。また他の「虫」、つまり昆虫類や両生類などにしても、やはり9月末に「戸を塞ぐ」=冬眠に入るのはやや早すぎます。七十二候で「虫」に仮託されているのは、太陽そのものの大地、気象、生物に及ぼす作用の盛衰なのではないでしょうか。つまり9月末に太陽はその作用を注ぐことをやめ(杯を返す)、3月はじめにふたたびその戸口をおごそかに「啓く」。それはそのまま農事の一年の始まり・終了の目安でした。
太陽とともに生きる変温動物「虫」たちは、暦上ちょっと無理に眠らされたり起こされたりしているのかもしれませんね。
(参考)
関辺のさんじもさ踊り
武西の六座念仏の称念仏踊
海神の天道念仏