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現在の「アメ横」のルーツとされるのが、いわゆる「ヤミ市」。
第二次大戦が終わった直後の混乱期に、人びとが物資を持ち寄って形成したマーケットです。
物資が極端に不足していた時代。
生鮮食品など、多くの品々が政府によって規制されていました。
人びとは、ヤミ市で禁制品を買うことで物資の欠乏を満たしていたのです。
上野駅から御徒町駅にかけての界隈にも、「青空市場」と呼ばれるヤミ市があり、
東北方面や常磐線沿線から運ばれた米などの食料品が商われていました。
やがて、引揚者救済の事業として「飴」を売る露店が登場。
これが「アメ(飴)ヤ横丁」の名前の由来だという説があります。
もう一つの説は「アメリカ横丁」説。
アメリカなど占領軍からの横流し品、外国商品が持ち込まれたことからそう呼ばれるようになったというのです。
高度成長の時代になると、東京には「集団就職」などで大量の人口が流入します。
その窓口となったのが、「北の玄関口」であり、「終着駅」であった上野駅でした。
当時、お盆と暮れの時期になると、上野駅公園口には「テント村」が出現したのだそうです。
ふるさとに帰省する、膨大な数の乗客をさばくためにテントが設置され、人びとはそこで列車を待ったのだとか。
列車待ちの時間つぶしに、人びとは上野の街に繰り出し、買い物をします。
これらの人びとの消費行動が、現在も続く「アメ横」の形成に大きく影響しているのだそうです。
たとえば、故郷へのお土産に「新巻鮭」などのお正月用品を買う人が多かったことが、
今も年末にテレビ中継される「アメ横の雑踏」につながっています。
列車を待つあいだ、新年に備えて上野の街で靴を新調……こんな人も多かったようです。
そのため、アメ横界隈に靴の専門店が集中するようになったのです。
高度成長期が終わっても、「珍しいもの」「舶来のもの」を探すならアメ横! という時代はかなり長く続きました。
インターネットが普及し、輸入雑貨店が身近になった現在でも、あの威勢のいい呼び込みの声、独特の活気を味わいに、つい足を運んでしまう……そんな方も多いのではないでしょうか。
時代に合わせて姿を変えながら、今も賑わい続ける「アメ横」。
「しばらく行っていないな」という方、また遠方の方も、機会があればお出かけしてみるのはいかがでしょうか?
参考:五十嵐康正・開沼博責任編集「常磐線中心主義」(河出書房新社)
松平誠「ヤミ市 幻のガイドブック」(ちくま新書)