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与謝蕪村は1716年摂津に生まれ、20歳頃に江戸へ向かいました。俳諧(はいかい)は上方発祥のものでしたが、蕪村はすでに亡くなっていた松尾芭蕉に心酔していました。京都には「芭蕉庵」を再現したほどです。芭蕉のようになりたい一心で江戸へ赴き、俳諧(はいかい)を学んだ後、師匠が没したのを機に、江戸を離れて芭蕉の旅をなぞりました。奥の細道の情景は俳画にも残されています。俳諧(はいかい)を「おかしみ」から「芸術」へと高めたのが芭蕉であったように、文人画を「おかしみ・趣味」の領域から「芸術」へと導いたのが蕪村でした。しかし、画業では光の当たっていた蕪村でしたが、俳人としての評価は明治に入り、正岡子規により発掘されたと言われています。その際に興味深いことは、蕪村のすばらしさを説明する際に芭蕉を引き合いに出していることです。没してのち、憧れの人と比較して称賛を得ることになるとは、蕪村には思いもしなかったことでしょう。
画業と俳諧の両方を会得した蕪村は、画業で生計を立てていました。若いころには俳画(俳諧と画の組み合わせたもの)を中心に、のちに文人画を究めていきました。その作風は叙情性が高く、同時代の池大雅との合作「十便十宜図」(川端康成記念館蔵)は、お互いの個性が際立つ作品となりました。俳画に関して言えば、現在のフォト俳句や写真エッセイなどの先駆け的存在と言えるのではないでしょうか。江戸時代を代表する天才は、俳諧においては明治に至るまで注目されませんでしたが、画業においては未来に大きな影響を与える作品を残していたのですね。
「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」は、蕪村が詠んだ辞世の句三句の最後の句です。芭蕉に憧れて旅三昧だった青年期、旅で見つけたものを俳諧と画で表現した壮年期、そして京都に居を落ち着けて文人画を究めた晩年期。人生の最期に詠んだ句のモチーフに白梅を選んだ蕪村の想いとは、どのようなものだったのでしょうか。白梅が持つ静寂と素朴が蕪村の文字や画を表わしているようです。一年を人生に例えてみて、早咲きの白梅を眺めてみたい…そんな気持ちにさせてくれる一句です。折しも、京都では12月25日は終い天神の日にあたります。北野天満宮の境内の白梅は咲いているでしょうか?
参考・出典
「日本美術史」山岡泰造監修
「俳句歳時記 冬」角川学芸出版
京都国立博物館「生誕300年 与謝蕪村」