“立大3羽がらす”長嶋さん親友「キン坊」が秘話明かす「こっちは悔しくて寝れないのに長嶋は…」
<私と長嶋さん>
東京6大学野球リーグでスーパースターだった長嶋茂雄さんと、立大同学年のチームメート、野球部主将だった本屋敷錦吾氏(89=元阪急、阪神)が親友を追悼した。合宿所でも同部屋で“立大3羽がらす”と呼ばれて活躍した大学時代の秘話を語った。【聞き手=寺尾博和】
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私は長嶋を「シゲ」、長嶋は私を「キン坊」と呼び合う仲でした。体の強い男だったから、今でも長嶋が亡くなったのが信じられません。
当日は自宅で家内から「パパ、長嶋さんが亡くなったみたいよ」と知らされました。天真らんまん、いつも元気で、まさに太陽のように輝いた男です。
野球部の同期18人は、卒業後も1年に1度ぐらいは集まろうぜって、毎年正月に東京に集合していた。長嶋も顔を出して昔話で盛り上がった。それがしばらく続きました。
私と長嶋は合宿所で同部屋でした。普通は1年と3年、2年と4年が一緒になるんですが、厳しい監督だった砂押(邦信)さんが決めたことです。期待されたんでしょうかね。
初めて出会ったのは静岡の伊東市で行われた立大のセレクション。私は3度甲子園大会に出場し、全国優勝(1952年)も経験していました。
同じ内野手でも、佐倉一高(千葉)の長嶋は無名でした。大柄な男だなというのが最初の印象です。でも一緒にノックを受けたんですが、これがお世辞にもうまいとは言えなかった。
みなさんは巨人時代の華麗なイメージがあると思いますが、正直言って下手でした。何度もトンネルするんですよ。でもバットを持たせたら、守備でフラフラしていた姿が一変した。
いきなりバックスクリーンにホームランを打ったんです。この当たりには驚きました。強烈な一打に立大マネジャーが「こいつだ!」と太鼓判を押して合格を出したんです。
東京6大学野球リーグで、長嶋と私、杉浦忠(挙母高)の3人が「立大3羽がらす」と言われました。杉浦もスターだから、神宮球場が満員になって盛り上がりました。
“鬼の砂押”の闇夜のノックは語り草です。石灰の白い粉をまぶしたボールでノックを受けるんです。バットも振った。軍隊式のスパルタで、我々は猛練習で鍛えられた。上達した長嶋の守備の型は、私とそっくりなんですよ。
合宿所でも、スリッパの脱ぎ方がどうとかこうとか、細かいことで、毎日怒られました。連帯責任と言われてね。でも部屋に戻ると、長嶋は布団に入って「グ~ッ!」ってイビキをかいて寝てるんですよ。
こっちは先輩に叱られたのが悔しくて寝れないのに、長嶋はしごかれてもすぐに忘れて熟睡です。なんという大物かと、こちらが長嶋に腹を立てたのを覚えています。
長嶋は2年秋に初本塁打、3年時は5本塁打、4年春の通算7本塁打で最多記録(当時)に並んだ。そして初の2季連続優勝に王手をかけた秋の慶大戦、0対0の5回に新記録のホームランを打って優勝するんです。
巨人戦のチケットを頼むと「はい、はい!」と快く受け入れてくれた。頼まれたらイヤと言えない性格ですから。でもいざ球場窓口にいくと、違う日のチケットがとられていました。
いいんです、長嶋ですから。素晴らしい仲間と同じ時代を生きることができて良かった。天性のスーパースターでした。
◆本屋敷錦吾(もとやしき・きんご)1935年(昭10)10月31日生まれ、神戸市出身。芦屋高では甲子園に3季連続出場し、52年の夏に全国制覇。58年に阪急に入団。64年阪神移籍。69年に引退。阪神、阪急のコーチを歴任した後、野球解説者。現役時代は168センチ、67キロ。右投げ右打ち。