06年8月、練習後のG大阪の西野監督(右)と談笑する釜本邦茂氏

日本サッカー界「史上最高ストライカー」釜本邦茂さんが10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。68年メキシコ五輪銅メダル、国際Aマッチ男子歴代1位の75得点、日本リーグはヤンマーで202得点を誇る。93年Jリーグ開幕時のG大阪監督も務めた。

1993年(平5)、ガンバ大阪監督時代の釜本さんは、現役さながら、選手よりシュート技術が高かった。ある日の練習後、30メートルほど先のゴールへ、「右はコントロール、左はパワー」と説明しながら左右の足でシュートをビシビシ決めていた。

「世界の釜本」と呼ばれたレジェンド。担当記者として接する機会に恵まれたが、ベンチではティアドロップ型のサングラスに、夏場は扇子のたたずまい。20代前半の記者には近寄りがたい人だった。なかなか勝てない試合が続いた会見で「いつも辞表は胸ポケットにある」と発言。辞任する気かもしれないと思い、翌日、自宅まで取材に行った。夜遅くになった帰ってきた釜本さんは、自宅に招き入れ「辞めるわけない。いつも、それぐらいの気持ちでやっているということや」とニヤリ。その日は滝行で身を清めてきたのだった。

負けず嫌いの塊だった。それだけに…。あとにも先にも、あんな寂しそうな目をした釜本さんは見たことがなかった。

「あのとき、もう少し、指導していれば…。ひょっとしたら、そういう選手が出てきてくれたかもしれないなあ…」。

十数年ほど前。釜本さんが現役時代にプレーしたヤンマーディーゼル・サッカー部の歴史を振り返る連載のため、じっくりと話を聞く機会があった。その中で苦い悔恨を吐露してくれた。

「あのとき」とは、選手兼任監督だった1982年(昭57)年のこと。右アキレス腱(けん)断裂の大けがを負い、数カ月後のトレーニング中に再び断裂。選手生命の危機に立たされたが「ケガで引退するのは格好悪い」と再起を決意した。ヤンマーには将来有望な若手ストライカーたちは複数いたが、彼らを指導する立場ではなく「ほっといて、自分のリハビリばかりしていたからなあ…」と唇をかんだ。

釜本さんが引退した84年以降、高校生年代で長身のFWが話題になるたびに「釜本2世」のキャッチフレーズが踊ったが、本物はいなかった。1964年(昭39)東京五輪の日本代表コーチだったドイツ人指導者デットマール・クラマーさんからは、会うたびに「日本サッカー界のために、第2のカマモトを育てなさい」と口酸っぱく言われたという。ストライカー釜本の復活を優先させたがために、その機会を逸したのかもしれない。もちろん、それがすべてではないが、釜本さんは自分を責めるように、遠い目をしながら弱々しい声でつぶやいた。「悪いことしたなあ」。

釜本さんが理想とする、世界レベルのストライカーが次々と育つ日がくれば、その後悔も和らぐだろうか。見届けることなく旅立ったことが残念でならない。【元サッカー担当=西尾雅治】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 釜本邦茂さん「いつも辞表は胸ポケットにある」「悪いことしたなあ」現役時代の後悔も