岡田武史氏が釜本邦茂さん悼む「半世紀も前に唯一、世界に通じた選手」ヤンマー勧誘の思い出も
「日本サッカー史上最高のストライカー」釜本邦茂さんが10日に81歳で亡くなったことを受け、元日本代表監督で日本協会(JFA)副会長、J2FC今治オーナーの岡田武史氏(68)が取材に応じ、追悼した。
今年1月の早稲田大ア式蹴球部(サッカー部)創部100周年記念祝賀会も、大先輩である釜本さんは欠席しており「最近、表に出てこられないな、と思っていて、闘病されていたことも詳しくは知らなかったので…。今朝、電話がかかってきて(訃報に接し)ビックリした。まだ81歳、お若い。お悔やみ申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします」と悼んだ。
釜本さんが1968年メキシコ五輪(オリンピック)で7ゴールを挙げ、大会得点王で銅メダル獲得に貢献した時、岡田氏は小学6年生。それまで野球に熱中していたが、列島の盛り上がりにも後押しされ、翌69年の中学1年からサッカーに専念するきっかけにもなった、憧れの存在だった。
初めての出会いは早大時代。当時あった日本B代表に学生で選ばれ「A代表と練習試合をさせてもらったりする機会もあって、その時だったかな。以降も大学に来てくださったり、面識はあって、大学4年の卒業前には、ガマさん(釜本さんの愛称)がヤンマー(現セレッソ大阪)の監督兼選手だったので『ヤンマーに入れ』と大阪に呼び出されて、ステーキごちそうになって『ここで返事しろ』と(笑い)。結局、お断りすることになったんだけど、よく覚えている」と懐かしんだ。
古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に進んだ後、Jリーグの前身、日本リーグでは社会人1年目からマッチアップした。
「DFとして、清雲(栄純)さんと並んで対峙(たいじ)したんだけど、大学の後輩というより、相手チームの新人の1年目ということで、ビビらせようと思ったのかな。スゴまれてね…(笑い)。最初の記憶は『怖かった』だったよ。その後も自分のところを攻めてきて、我々が(軽量の)バレーボールを蹴るような感じで、サッカーボールを蹴っていたことが印象的。すごく足が速いわけではなかったけれど、その爆発的なパワーと、体のキレとスピード、ぶつかりに行っても軸足が全然ぶれないし、でも基本的な技術は、ものすごく、しっかりされていて。次元の違う、ずばぬけたストライカーだった」
岡田氏が現役引退の意向を固めた、選手としての限界を突きつけられた、平成初頭。90年1月の日本リーグ選抜-バイエルン・ミュンヘン戦も思い出す。主将として親善試合を迎え、スコアは1-2の惜敗だったものの「このままでは日本人には一生無理」と思わされて、指導者を志した。
その中でドイツ勢から感じた「うまいとかではなくて、次元が違う」。それが「釜本選手から感じたものと同じ」だった。
「スケール、やはり何度も言うけど次元が違った。日本で唯一、その次元にいた方。プレーの幅、パワーと全てにおいて、その半年後のワールドカップ(W杯)で優勝した西ドイツの主力で構成されていたバイエルンと、同じ感覚を持っていた。半世紀も前に唯一、世界で通じた選手。あの頃もし欧州に渡っていれば、ガマさんだけは成功していたと思う。それぐらい、あの人だけは日本人離れしていて、飛び抜けていて、突き抜けていた」
指導者に転じ、自身がコーチからA代表の監督に昇格して41歳で日本悲願の初W杯に導いた後の98年、フランス大会を控えた4月には対談もした。
準備に集中するため、開幕まで全ての個別取材を断ると決めた時期だったが「断れなかった…(笑い)。誰もガマさんには逆らえないからね。当時は国会議員だったかな。エールやアドバイスをくれるというよりは、ご存じの通り『ワシは』という独特なタイプだったね。W杯に向けて、どんな話をさせていただいたのかな…。さすがに、もう覚えてはいないんだけど」とした上で、酒席の話を紹介した。
「その後、S級ライセンスの更新研修で集まった時に『飲み行くぞ』と。夜、出て、いつも通りガマさんのお話を全員で聞いたんだけど『チームというものはな、誰が点を取るか、最初に決めなあかんのや』と。でも、釜本さんのところに2人マークついて、もう1人がフリーだったら、そっちにパス出しますよね、と聞かれても『ワシや。それでもワシの方がゴールの確率が高い』と(笑い)。聞いたのは、松木(安太郎)だったかな。さらに他の誰だったか、質問を重ねて。ガンバ大阪の監督では、それがうまくいかなかったんですか? って。(Jリーグ開幕の93年に10クラブ中7位で)一気に場が凍りついて“バカ、何を聞いてんだ”ってなったんだけど、笑顔でね『ワシは優しすぎたんや』と。その後は“いい意味で”よく訳の分からないことをおっしゃって、楽しませてくださったけどね(笑い)」
生涯通算548ゴールのスコアラー。以来、日本に現れない真のエゴイストだった。岡田氏は2014年にFC今治の経営に参画、バルセロナをベースに日本人の良さを引き出す「岡田メソッド」を確立したが、そこでも釜本さんの存在が念頭にあった。
「ガマさん以来、点取り屋が日本には出てきていない、と言われている。それならば、世界のGKやDFと1対1で決められないのならば、共通認識として2対1や3対1の状況をつくる『型』があればいい。ボールを保持することが一番ではなくて、得点することが一番の目的だから」
最終的には発想で常識を打ち破る選手の台頭が必須だが、ベースとしては、組織的な理想を追い求めてきた。それだけ釜本さんが不世出のFWだったとも言える。メキシコ五輪から、ほぼ50年後の当時でも存在感は際立っていた。
最後に会ったのは21年の日本協会100周年記念式典。「パーティーでお話しして、壇上でも一緒になってね」。釜本さんが日本代表に愛の辛口を送って、岡田氏が森保一監督をフォローして、笑わせる。そんな温かい一幕も、現在の「史上最強」日本代表への期待の裏返しだった。
「褒めることは、あまりない方でね。いつも『アカン!』と、おっしゃっていたからね(笑い)。ご自身が何でもできてしまうだけに『日本、まだまだや!』という気持ちがあったんでしょう。それぐらい次元が違って、とんでもなかった選手。フィジカルでも闘争心も含めたメンタルでも、全てヨーロッパでも対等に渡り合えたはずの人。だからこそ、さっきの『誰が点を取るか最初に決めなあかん』は、今にも通じる願いなのかもしれないね」
リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、キリアン・エムバペら、一気に「W杯優勝」を目指す日本に不可欠な世界的ストライカーの「出現」を、国際大会の得点王になれるような“釜本2世”の誕生を-。日本最高の指導者と称される岡田氏でも、踏み入ることができぬ領域、理解の及ばぬ次元で、釜本さんは生きていた。【木下淳】