釜本邦茂氏が死去 81歳、肺炎で 68年メキシコ五輪で7得点“史上最高ストライカー”
日本サッカー界の「史上最高ストライカー」釜本邦茂氏が10日午前4時4分、大阪府内の病院で肺炎のため死去した。81歳だった。Jリーグが発表した。
68年メキシコ五輪で7得点を挙げ得点王に輝き銅メダルを獲得。日本代表として国際Aマッチ男子歴代1位の75得点を誇る。日本リーグ(JSL)ではヤンマーで202得点など選手兼任監督も担い、93年のJリーグ開幕時はG大阪の初代監督も務めた。日本サッカー協会(JFA)の副会長などを歴任しただけでなく、政治家としても活躍。「ガマさん」の愛称で親しまれた。
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釜本氏の豪快な笑いも、包み隠さないトークも、もう聞くことは出来ない。数々の世界の強敵からゴールを挙げてきたが、病魔には屈した。80歳を迎えた昨年春に「誤嚥(ごえん)性肺炎」で緊急入院。以降は自力で呼吸が出来ないほど容体は悪化し、呼吸器をつけながらの生活が続いた。外出や家族以外との接触も最低限に抑え、妻修子さんらと一緒に過ごしながら闘病を続けていが、息を引き取った。
現在のサッカー日本代表は「海外組」が主流だが、世界に最初に名を知らしめた日本人サッカー選手が「KAMAMOTO」だった。68年メキシコ五輪では日本を銅メダルに導いた。1次リーグ初戦ナイジェリア戦でハットトリックを達成。開催国メキシコとの3位決定戦でも2得点を挙げ、2-0。試合終盤にはアステカスタジアムに集まった10万人超の大観衆の声援を「メヒコ(メキシコ)」から「ハポン(日本)」に変えさせた。
日本代表の国際Aマッチ通算76試合出場で75得点。カズ(三浦知良)の55得点に大差をつける男子日本代表歴代1位だ。11年女子W杯ドイツ大会優勝時に女子日本代表なでしこジャパン澤穂希(最終的に80得点)に抜かれたが、ゴール数だけでなく数々の記録でトップに立つ。
恩師と慕う「日本サッカーの父」デットマール・クラマー氏(西ドイツ)に素質を見いだされて成長し、メキシコ五輪後にBミュンヘン(ドイツ)など欧州や南米の強豪から獲得のオファーも届いた。ウイルス性肝炎で白紙となったが、釜本氏も「西ドイツのチームに行きたかった。あとはサインだけだった。海外でやってみたかったなと、今でも思うよ」と明かしたこともある。
早大時代に天皇杯を2度制した。ヤンマーでは日本リーグ7度の得点王と4度の優勝。通算251試合202得点で、84年に現役を引退した。東京・国立競技場で行った引退試合には世界の名選手が駆けつけ、ブラジル代表の「王様」ペレに肩車されて場内を1周した。
引退後はJリーグ元年からG大阪監督、JFA副会長、政界にも進出し、影響力は絶大だった。現場の第一線を離れても「サッカーを好きになってくれる子供が1人でも増えてほしい」とサッカー教室で全国行脚。11年の東日本大震災後は被災地に義援金持参で何度も訪れ、子供たちとボールを蹴り合った。
「世界の王」王貞治氏と一緒に野球をしたこともあり、同氏から「プロ野球選手になっても通用する」と競技転向を勧められるほど、運動神経は抜群。バスケ、バレー、ラグビーなどのプロ化などにも注視し、他競技を含めた男女のスポーツ繁栄も願い続けていた。
一方、野球の23年WBCで日本が優勝した際には「イチロー選手、大谷翔平選手、佐々木朗希選手など野球界は世界的なスターがどんどん出てくるなあ。新聞の1面を個人で飾れるのはサッカーではカズ以来いないかな。どんどん“釜本超え”って記事が出てくるとうれしくなるよ。サッカー界にもスターが誕生してほしいな」と悩める胸中も抱いていた。
まだまだ若々しく活動的だった日本NO・1ストライカー。クラマー、ペレらと天国でボールを蹴るのは、まだまだ早すぎる。