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日本陸海軍は第一次世界大戦末期と大戦終結後に国防方針に改訂を加え、用兵綱領(作戦計画の大綱)にも大変更が生じた。そのため、日本海軍はアメリカとの戦争における洋上決戦海域を沖縄から小笠原に移動させ、また日本陸軍は海軍と協同して開戦後すみやかにフィリピンのルソン島を攻略、アメリカ陸海軍の根拠地を奪うこととした。
大正年間に策定された日本陸軍のフィリピン攻略作戦計画においては、アメリカ軍が厳重に防備しているバターン半島やコレヒドール要塞への攻撃が含まれていなかった。しかし1928年にはフィリピンを旅行して情報収集を行った参謀本部作戦課の前田正實大尉(当時、太平洋戦争開戦時は中将)がバターンとコレヒドール要塞の重要性を指摘したため、バターン攻略を真剣に検討することとなった。
作戦計画の再検討と並行して日本陸軍は要塞へ打撃を与えるべく、新型重爆撃機の導入を決意した。同じ1928年の初め、当時陸軍航空本部総務部長だった小磯國昭少将(当時、後の第41代首相)の進言により、陸軍航空本部が台湾よりマニラ付近を攻撃可能な超重爆の研究を発議したのである。そして「超重爆撃機設計試作要領」が提出され、実に80万円もの予算を設けて本格的な研究に着手している。
ただ、新型重爆を導入するといっても当時の日本はまだまだ航空黎明期で、自主開発には大きな困難が予想された。実際1927年に採用したばかりの八七式重爆撃機でさえ爆弾搭載量1トンで、試作要領の爆弾搭載量2トン、航続距離2500キロという性能は全く桁外れの要求だった。そのため、当初から国産化は極めて困難であると判断されており、最終的にはドイツのユンカース社から設計を買い取った上で、細部を日本陸軍の仕様に改めて製作することとなった。この新型重爆撃機が後の九二式重爆撃機で、日本陸軍最初で最後の四発重爆となったのである。
原型は1928年に設計が完成したばかりのG.38で、当時は世界最大級の旅客機だった。また、ユンカース社では極秘裏にK.51という爆撃機型の設計も進めており、三菱重工業が製造権を買い取る際には、この爆撃機型が基本となった。また、旅客機型のG.38と爆撃機型のK.51は並行して設計作業が進められていたようで、しかもユンカース社の方から日本陸軍に売り込みを図った可能性がある。
というのも、買収交渉の窓口となった三菱重工業が製造権を買収した時点では、ドイツでさえG.38初号機が完成していなかったのだ(初飛行は1929年11月)。またユンカース社はG.38の製造資金を捻出するのに苦労しており、ドイツ航空省とルフトハンザ航空の資金提供を得て、ようやく製造開始にこぎ着けたところだった。そればかりか、前述したようにベルサイユ条約の関係からK.51は極秘のプロジェクトであり、スウェーデンのスタッフが作業を担当していた。
これらの要素を考えると、三菱重工業がK.51の製造権を買い取った時期はいささか早すぎ、また話が少々うまく出来すぎているようにと思える。恐らく、極秘裏に爆撃機型の設計を進めてはみたものの、売り込む当ての全くないユンカース社と、同じく極秘に超重爆撃機の調達を図りたい日本陸軍との利害がぴったりと一致し、建前上ではG.38の製造権を民間企業である三菱重工業が買い取るという形で交渉を進めたのではないか。
いずれにしても、最初に述べたように製造権買収交渉は1928年中にまとまり、エンジンの強化と銃座の増設、重量増加にもとづく機体構造の強化などといった設計変更、改修などを加えた上で1931年には試作機が完成した。同年10月26日には試作機が各務原で初飛行し、各種試験の結果、性能は十分で実用に耐えると判定された。その後、翌1932年には二号機が完成し、それから半年以内に三号機も完成したようだ。最終的に、九二式重爆はエンジンの異なる五号機と六号機まで完成している。
そして1933年には戊中隊という特殊任務部隊を編成し、優秀な人材を結集して訓練を開始したが、当然ながら九二式重爆撃機の存在は厳重に秘匿されていた。実際、初号機完成直後に上海で日中の武力衝突事件が発生し、実戦投入の話も出たが、機密保持の観点から見送られている。また1937年に日中両国が戦争状態に至った後も、同様に機密保持の観点から実戦投入を見送ったのである。結局、九二式重爆は実戦にも参加しないまま旧式化してしまい、観兵式においてにぎやかし的に東京上空を編隊飛行したのが最初で最後の晴れ姿であった。
少なくとも出現当初の段階において、九二式重爆は世界の最高水準に達する重爆撃機といえるだろう。性能の詳細は表にまとめてあるが、同時期にソビエトが開発していたTB-3と比較しても、速度以外の点ではほとんど遜色がないのである。また、九二式重爆は日本ではじめて20ミリ機関砲を装備した重爆撃機でもあり、防御火力という点ではTB-3をしのいでいた。
旧日本陸軍の問題点を語る際、戦略爆撃機を装備していなかったこと、あるいは戦略爆撃の思想がなかったことはひんぱんに指摘されるポイントである。しかし、九二式重爆は「フィリピン攻略」という国家戦略にもとづいて開発された重爆撃機であり、開発の経緯と機体性能のいずれにおいても、十分に戦略爆撃機としての要件を満たしていたといえるだろう。少なくとも昭和初期の段階において、日本陸軍は国家戦略にもとづく重爆撃機を開発する意図があり、実際にそのための重爆を保有していたのである。
日本陸軍は、自国のおかれた情況を見据えて戦略を立案し、必要とあらば乏しい予算をやりくりしてでも時代に先駆けて最新鋭の巨大爆撃機を建造するだけの見識と能力を持っていた。単発戦闘機が一機あたり77,000円で調達できた1933年当時、九二式重爆は初期投資だけでも80万円を必要としたのである。折しも軍縮の嵐が吹き荒れているさなかのことで、同じく1931年に量産を開始した八九式中戦車でさえ、その年には12両しか造っていないことを考えると、どれだけ陸軍が九二式重爆に期待していたか伝わるかもしれない。
問題は、日本にその「国家戦略」を遂行するための国力が備わっていなかったという、その一点にある。ソビエトはTB-3だけでも800機を保有していた上、さらに強力かつ巨大なTB-4重爆撃機も実用化していたのだ。しかし、日本陸軍が保有した九二式重爆はわずかに6機で、ソ連の1%にも満たない。日本陸軍にとって本当に問題だったのは、戦略爆撃機を装備しなかったことではなく、装備したくても調達に必要な予算が確保できなかったと言う点にある。つまり、全ては国力の問題、あるいは乏しい国力を無駄に使ってしまったという問題に帰結するのだ。 (隔週日曜日に掲載)
■九二式重爆データ
動力:800馬力のユンカース1列型ピストン・エンジン4基
性能:最大速度200km/時;実用上昇限度2,050m;航続距離2,500km
重量:自重14,900kg;総重量25,400kg
寸法:全幅48.0m;全長33.35m;全高7.0m;翼面積294.0平方メートル
武装:7.7mm機銃8挺、20mm機関砲1門、および最大5,000kgの各種爆弾
■TB−3データ
動力:715馬力のBMW-4M17F列型ピストン・エンジン4基
性能:最大速度215km/時;実用上昇限度3,800m;航続距離3,225km
重量:自重不明;総重量17,400kg
寸法:全幅39.5m;全長24.5m;全高8.45m;翼面積不明
武装:機銃3〜10挺、および最大2,200kgの各種爆弾
■九三式重爆データ
動力:700馬力のハ2-II列型ピストン・エンジン2基
性能:最大速度220km/時;実用上昇限度5,000m;航続距離1,100km
重量:自重4,880kg;総重量8,100kg
寸法:全幅24.8m;全長26.5m;全高4.92m;翼面積90.74平方メートル
武装:7.7mm機銃3挺、および最大1,500kgの各種爆弾
【記事提供:リアルライブ】