今回紹介するのは1985年公開の黒澤明監督映画『乱』。あの「世界のクロサワ」の最後の時代劇になった作品だ。

 ここで語るまでもなく、これまで同作を賞賛する文章などは多数出ており、疑いようのない名作ではある。ではなぜ、今更この作品かというと、最近個人的に居酒屋に行った時に、20代と思われる人達が、同監督の作品が退屈で眠くなるという話を盗み聞きしたからだ。

 どうやらその人達は『七人の侍』のことを言っていたようだ。確かに同作は現在で考えると収録時間も長いし、モノクロで観づらいのかもしれない。演出も、今は同監督の演出を参考にして映像作りをしている人も、国内外問わず大量にいるので、これも真新しいものには映らないかもしれない。では、これから黒澤映画を全く知らない人は、どの作品を最初に観ればいいのか? これには今回の紹介作『乱』であると個人的には断言する。

 理由は、カラー作品で現在の人でも馴染みやすいことがある。とは言っても同監督のカラー作品には、有名なところだと、『どですかでん』、『影武者』、『夢』、さらに遺作となった『まあだだよ』などがある。それらのなかから、なぜこの作品かというと、『どですかでん』、『夢』は世界観が独特すぎるので、始めに触れるのには合わないかと除外した。遺作である『まあだだよ』は、現代劇ではかなりいい作品とは感じるが、やはり黒澤監督は時代劇の方が観始めは良いだろうと候補に外した。

 残りは『影武者』だが、この作品は黒澤映画の時代劇のなかでもより会話劇に重点が置かれている作品である点と、公開前に、勝新太郎の降板という事実があるため、勝新太郎が信玄の影武者をやるとどうなったかという話がつきまとうため、これも最初には相応しくないと判断した。

 『乱』は、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』をモチーフにしており、架空の戦国武将・一文字秀虎を主人公にその晩年と3人の息子である、太郎孝虎・次郎正虎・三郎直虎との確執や兄弟同士の闘争を描く。また秀虎のモデルとしては、戦国武将の毛利元就が強く意識されており、「三本の矢」の逸話などや、山陽道周辺の山岳地帯を思わせるような、雄大な山の背景などでそのことを感じることができる。

 同作は、黒澤流の演出、特に戦闘描写に関しては同監督の集大成とも言える作品だ。ただ大人数を使って迫力を出すという演出ではなく、カメラワークの上手さが光る。ドカドカ勇ましい馬蹄の音と、騎馬兵の撮り方のカットが絶妙で、人数以上の迫力を与えている。また抜けの背景カットもかなり的確で、山脈を背に展開する軍団、燃え落ちる城などなど、甲冑と背景の色彩がひとつひとつのシーンを強烈に目に焼きつける。元々黒澤監督は画家を志していたこともあり、後半の作品になると通常の絵コンテではなく、一枚絵でカット割りを考えるようになったが、その辺りの色彩感覚がカラーになってより真価を発揮した状態だ。

 同監督の演出で有名なものといえば、『蜘蛛巣城』などで見せた、演者を本気で殺すような勢いで飛んでくる矢だが、今作でも『蜘蛛巣城』ほどではないが、矢の使い方は凄まじいものがある。攻城シーンなどで、とにかくヒュンヒュンと風切音を立てながら殺しにくる勢いで飛んでくる。

 どうしても時代劇を描く場合、これは国内外を問わないが、白兵戦が一番迫力を出しやすいので、軍勢同士のぶつかり合いに終始してしまうところがある。だが、本来合戦などにおいては、飛び道具での死傷者が一番多いのだ。現在戦や近世以降の戦列歩兵を除けば、この飛び道具を上手く使えるクリエイターというのは少ない。この辺りの演出は現在の10代、20代に人が観ても斬新に映ることだろう。しかし、同監督の飛び道具描写が素晴らしいのは矢だけではない。矢に隠れがちだが火縄銃の方もかなり印象的なシーンが多い。

 『七人の侍』の時からそうだが、同監督の火縄銃の弾は、どこから飛んで来るかわからない時が多い。『七人の侍』の時は完全に伏兵の狙撃手として鉄砲撃ちが登場するので、それで正しいが、攻城戦がメインである本作でも、似たような演出を所々でしている。極力鉄砲隊の全体図が映らないようにして、銃眼からの火花や発砲音だけで兵士がバタバタと倒れるのだ。おそらく普通にやるとしたら、ただ人が倒れるだけのシーンになってしまうだろうが、カット割りが視覚的に残るようになっているので、どこから弾が飛んで来るかわからない包囲されている感じというのがよく出ている。

 平地での合戦演出も用兵が上手いというか、他の戦国系時代劇のように、大規模な白兵戦をやらないのに、それでも落馬や鉄砲の一斉射などで、迫力を出してしまう辺りが、黒澤監督の合戦の演出として特筆すべき点だ。無駄なセリフや掛け声を挟まずとも、カメラアングルだけで、一連のストーリーが出来上がってしまっている。カットごとになんともいえない説得力があるのだ。まあ、その分落馬する人の落ち方とかは、演者が命がけでやったのだろうが。

 戦闘面の他に特徴なのが、日本人だとオーバーなのではと思ってしまうほどの演者の芝居だ。これは黒澤映画全体の特徴としていえるのだが、とにかく人物が動きながら、感情を露わにする。これこそが黒澤映画が国内以上に、海外で評価を得た大きな理由で、かつて映画評論家の淀川長治氏は、黒澤監督が亡くなった直後のインタビューで「西洋の言葉とあの人(黒澤監督)の言葉が合う。それが世界の言葉なのね。リズムが非常に合うのね」と語っていた。そのリズムのおかげで海外、特に欧米の人は「ここは日本だから、こうなんだろうな」というフィルターなしで、すんなり映像に入りやすいのだそうだ。今回の作品でそのリズムを体感するならば、主役の仲代達矢演じる秀虎やピーター演じる狂阿弥に注目するのがいいだろう。舞台演劇のような動きのようで、完全に映画向けの、躍動感ある演技を感じることができるはず。

 また、秀虎の表情の変わり方もこの作品の見どころだ。陰謀の限りを尽くして現在の地位まで登りつめた武将が、肉親や部下の裏切りにより、段々と狂人に変わっていく様が、嫌というほどよく出ている。また、その狂っている様をアップの顔芸過多になりすぎず、適度に引きの画を混ぜているのも、黒澤映画らしい技法だ。

 ストーリー的には前記したように『リア王』を元に、戦国の世のエッセンスを入れたという形なので、ひょっとすると単純でわかりやすすぎる話だという印象を受けるかもしれない。しかし、大まかな流れを予想出来たとしても映像に引きこまれてしまうほどの、説得力というか、パワーがこの作品にはある。最近は年月もたったので、黒澤映画の芸術性ばかりがクローズアップされるが、圧倒的な色彩力と構図の上手さ、セリフ回しの軽快さなど、視聴する側を引き込む娯楽性の高さもかなりのものだ。視聴すれば、大きなスケールのなかで繰り広げられる、肉親同士の争いという、古来からの人間の業というべきものを扱った、わかりやすい世界観に引き込まれることだろう。

 ただ一点だけ気になる点が…。次郎役の根津甚八のカツラだ。寄りのシーンで明らかに継ぎ目が目立つのだが、もう少しなんとかならなかったのか。

(斎藤雅道=毎週土曜日に掲載)

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ