高校野球は今年100年を迎える。その長い歴史のなかで、現場指導者たちが「最大の転機」と位置づけているのが『金属製バット』の導入だ。

 高校野球の世界で金属製バットが解禁されたのは、1974年第56回夏の甲子園大会だった。同年8月6日付の毎日新聞に興味深いコラムが掲載されていた。タイトルは『金属バット賛否』−−。
 「出場34校を平均すると、ほぼ2人に1人が“金属打者”」
 正式に解禁が通達されたのは同年3月だが、センバツ大会でお披露目とならなったのは生産が間に合わなかったからで、製品が十分に出回っていない状況も配慮し、「夏の大会から」となったのである。
 木製バットは芯を外すと折れてしまうことが多々ある。また、雨天などで湿気を吸ってしまえば使い物にならなくなってしまう。金属バットはその弱点を完全に補っており、耐久性も高い。バットの材料となる特殊な木材の量も限られている。自然保護環境への配慮も含め、導入時点ではもう一つの特徴である『反発力の高さ』はさほど懸念されていなかったようだ。

 また、材質、色などに制限が掛けられての解禁となったため、夏の大会で実際に使用できたのは米国社製品だけだった。コラムでは「使用者が2人に1人の割合」とあったが、地方大会を含め、ほぼ全員が金属バットを使用している現在では考えられない。同時期の朝日新聞、読売新聞によれば、解禁元年の同大会で、「東海大相模(神奈川県)だけは全員が金属バットを使用」と紹介されていた。
 その東海大相模は3回戦(対盈進/広島県)で16安打13得点と圧勝し、金属バットの快音を甲子園に響かせた。原辰徳・現読売ジャイアンツ監督が一年生ながらベンチ入りしており、翌年春、津末英明(日本ハム−巨人−現巨人職員)とのクリーンアップで攻撃野球を繰り広げていく。

 当時を知る元私学職員が東海大相模の攻撃野球を、こう回顧する。
 「故・原貢さん(監督/当時)は攻撃的な野球を好む指導者でしたが、金属バットの怖さみたいなことも話しておられました。同校の野球場で、金属バットでのフリー打撃練習をさせたら、ライナー性の打球を追う外野手がフェンスに激突したそうです。その外野手は『捕れる』と判断したから全力で追い掛けたわけで、金属バットで放たれた打球は低い弾道でも外野フェンスまで届くという怖さを認識されていました。外野フェンスにラバーを貼るなど、緊急措置がされました」
 しかし、元在京球団スカウトもこんな話をしてくれた。同年、もっとも高く評価されたバッターは銚子商(千葉県)の篠塚利夫(現・和典)だったという。
 「2年で4番。彼が使っていたのは木製バット。これまで使っていた木製バットとの違和感で金属バットを使わなかったと聞いたように記憶している。体は細かったが、木製バットをしならせるというか、材質の特徴を存分に生かした打撃を見せてくれた」
 調べてみたが、篠塚は同年夏、大会第5号の本塁打を放っていた。

 同大会の総本塁打数は11。前年は10本。数値では大きな変化はないが、その後、高校野球は打撃マシンの定着などもあって、1982年に史上初、総本塁打数が30本を越える。当然、金属バットは全球児に浸透していた。

(スポーツライター・美山和也)

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ